朝から真夏の日差しが照りつける今日、
午前中に岡崎の街を散策してきました。
あまりの暑さに、自転車は諦め、
車で出掛けてしまいました(^^;
午前中に岡崎の街を散策してきました。
あまりの暑さに、自転車は諦め、
車で出掛けてしまいました(^^;
まず訪れたのは、美合の本宗寺です。
先日、土呂の町の様子を紹介しましたが、
蓮如が1468年(応仁2年)に創建し、
戦国時代に土呂の集落の中心的な存在だった本宗寺は
三河一向一揆の後に美合に移されています。
蓮如が1468年(応仁2年)に創建し、
戦国時代に土呂の集落の中心的な存在だった本宗寺は
三河一向一揆の後に美合に移されています。
本宗寺は美合駅からほど近いところにありました。
築地塀で綺麗に囲まれた境内に、石川数正や
家康の叔母、妙西尼のお墓がありました。
築地塀で綺麗に囲まれた境内に、石川数正や
家康の叔母、妙西尼のお墓がありました。
家康の懐刀と言われた石川数正ですが、
小牧長久手の戦いの後には
秀吉方に寝返っており、何故岡崎に
お墓があるのか不思議に思います。
小牧長久手の戦いの後には
秀吉方に寝返っており、何故岡崎に
お墓があるのか不思議に思います。
本宗寺を辞した後、広忠寺に向かおうと思ったのですが、
その途中で、大久保彦左衛門菩提寺の案内を見かけ
長福寺に向かうことにしました。
その途中で、大久保彦左衛門菩提寺の案内を見かけ
長福寺に向かうことにしました。
大久保彦左衛門は「三河物語」を著した事で知られていますが、
知行はわずが2000石の旗本です。
知行はわずが2000石の旗本です。
大久保氏は、松平氏の勢力がまだ西三河一帯にも及んでいなかった
松平清康(家康の祖父)の頃から仕えた古い家臣で、
一時は、大久保忠隣が老中にまで抜擢されますが、
大久保忠隣は本多正信・正純によって失脚させられてしまい、
一時期は、松平最古参と言われた大久保氏にあって
大久保彦左衛門(忠教)の知行が、唯一のものだったようです。
松平清康(家康の祖父)の頃から仕えた古い家臣で、
一時は、大久保忠隣が老中にまで抜擢されますが、
大久保忠隣は本多正信・正純によって失脚させられてしまい、
一時期は、松平最古参と言われた大久保氏にあって
大久保彦左衛門(忠教)の知行が、唯一のものだったようです。
長福寺近くの、真夏の景色です。
長福寺から歩いて4~5分の所に、
大久保氏一族のお墓がありました。
大久保氏一族のお墓がありました。
この墓地のすぐ横に道路が通っていますが
この道は、何度も通った事があります。
この道は、何度も通った事があります。
長い間、岡崎に住んでいますが、
ここにこの墓地があるとは、まったく知りませんでした。
ここにこの墓地があるとは、まったく知りませんでした。
天下平定の為に、松平氏に尽くした大久保氏、
多くの人がその過程を支え、そして
今はひっそりと眠っていると思うと
感慨深いものがありました。
多くの人がその過程を支え、そして
今はひっそりと眠っていると思うと
感慨深いものがありました。
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http://www.geocities.jp/shanehp_tabi1/Travel/Japan/WagamachiOkazaki.html
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