今日アップしたのは、藤川宿です。
藤川宿は旧東海道五十三次の37番目の宿場町で、
岡崎宿のひとつ東側の宿場です。
藤川宿は旧東海道五十三次の37番目の宿場町で、
岡崎宿のひとつ東側の宿場です。
南北を山に囲まれ、東西に細長い宿場で
当時でも宿場の西の端から東の端まで
1km程もあったそうです。
当時でも宿場の西の端から東の端まで
1km程もあったそうです。
この藤川宿の西側には
旧東海道の松並木が続いています。
旧東海道の松並木が続いています。
名鉄の踏切を挟んで松並木が続いているので
赤い名鉄電車を入れた写真を撮ることが出来ます^^
赤い名鉄電車を入れた写真を撮ることが出来ます^^
ここから東に行くと芭蕉の句碑のある十王堂を過ぎました。
芭蕉の句は、
"爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた"
"爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた"
むらさき麦とはかつてこの辺りで栽培されていた
穂が紫色をした紺屋麦で(高野麦)、
食用や染色用として使われていたそうです。
穂が紫色をした紺屋麦で(高野麦)、
食用や染色用として使われていたそうです。
その先には宿場の西の端の、西棒鼻がありました。
棒鼻というのは、当時宿場の端を表す言葉だったようです。
棒鼻というのは、当時宿場の端を表す言葉だったようです。
棒鼻を過ぎてしばらくいくと、脇本陣跡がありました。
脇本陣の建物は現存していませんが、
写真の門構えは当時からのもののようです。
写真の門構えは当時からのもののようです。
当時は約130坪もの広さがあったようで、
脇本陣の裏側にまわると、
畑の中に古い石垣がありました。
脇本陣の裏側にまわると、
畑の中に古い石垣がありました。
当時の脇本陣の屋敷の石垣でしょうか。
人通りの少ない静かな宿場を抜けると東棒鼻です。
ここでは道の両側に石垣を積んだ
宿囲石垣が復元されていました。
宿囲石垣が復元されていました。
歌川広重が描いた東海道五十三次の藤川宿の浮世絵は、
毎年8月に幕府から朝廷に献上される馬を連れた一行が
この東棒鼻を通る時の様子を描いたものです。
毎年8月に幕府から朝廷に献上される馬を連れた一行が
この東棒鼻を通る時の様子を描いたものです。
本陣跡やこの東棒鼻には、
広重の絵も掲示されていて
当時の様子を思い浮かべることが出来ます。
広重の絵も掲示されていて
当時の様子を思い浮かべることが出来ます。
この東棒鼻は、古い建物もいくつか残る
静かな藤川宿の象徴になっているようでした。
静かな藤川宿の象徴になっているようでした。
本編のホームページの藤川宿の様子は こちら です:
http://www.geocities.jp/shanehp_tabi1/Travel/Japan/WagamachiOkazaki/Fujikawa.html
http://www.geocities.jp/shanehp_tabi1/Travel/Japan/WagamachiOkazaki/Fujikawa.html