昼間に携帯から投稿しましたが、
いま、京都に来ています(^^ゞ
いま、京都に来ています(^^ゞ
最近、年に1回ほど京都で行われる
シンポジウムに参加する機会があります。
京都で行われるシンポジウムは、
シンポジウムの終了後に史跡めぐりが出来るので、
いつも楽しみにしています^^
シンポジウムに参加する機会があります。
京都で行われるシンポジウムは、
シンポジウムの終了後に史跡めぐりが出来るので、
いつも楽しみにしています^^
今日は、午前中に出社して、
昼前に京都に向かいました。
昼前に京都に向かいました。
名古屋からだと、京都までは のぞみ でわずか36分です。
お昼の時間を利用して御所を早足で訪れ、
セミナー会場に向かいました。
お昼の時間を利用して御所を早足で訪れ、
セミナー会場に向かいました。
御所では、堺町御門から仙洞御所の外側をめぐり、
京都御所の建礼門から清所門まで歩き、
それから蛤御門に向かいました。
京都御所の建礼門から清所門まで歩き、
それから蛤御門に向かいました。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190711/21/shanehashi/30/8f/j/o0384028814499117770.jpg?caw=800)
この蛤御門は、幕末の1863年(文久3年)、
8月18日の政変で京都を追われた長州藩が
京都に攻め入った禁門の変の主戦場になったところです。
1864年(元治元年)の事です。
8月18日の政変で京都を追われた長州藩が
京都に攻め入った禁門の変の主戦場になったところです。
1864年(元治元年)の事です。
吉田松陰の門下生で、松下村塾で高杉晋作と
塾頭の座を争った久坂玄瑞や来島又兵衛が
この戦いで命を落としています。
塾頭の座を争った久坂玄瑞や来島又兵衛が
この戦いで命を落としています。
そして、夕方シンポジウムが終わってから
高瀬川沿いに四条から二条辺りまで歩いてみました。
高瀬川沿いに四条から二条辺りまで歩いてみました。
今日は日没が迫っていましたが、まだ明るかったので
前回見落としていた史跡もいくつか見つけることが出来ました。
前回見落としていた史跡もいくつか見つけることが出来ました。
そのひとつが、桂小五郎蟄居の跡です。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190711/21/shanehashi/65/dc/j/o0288038414499117776.jpg?caw=800)
長州藩の主要人物だった桂小五郎(後の孝允)は、
禁門の変の後も京都に潜伏し続け、その隠れ家が
彼の愛妾・幾松のところだったそうです。
禁門の変の後も京都に潜伏し続け、その隠れ家が
彼の愛妾・幾松のところだったそうです。
鴨川沿いの納涼床もある高級料亭になっていました。
そして高瀬川の北の端に近い一之舟入の様子です。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190711/21/shanehashi/fb/aa/j/o0384028814499117779.jpg?caw=800)
角倉了以が開いた高瀬川、かつては
船が荷物の上げ下ろしをする舟入が八箇所あったそうですが、
いまはこの一之舟入が残るだけです。
船が荷物の上げ下ろしをする舟入が八箇所あったそうですが、
いまはこの一之舟入が残るだけです。
川船が一艘置かれているのですが、
その前に、鴨が羽を休めていました。
その前に、鴨が羽を休めていました。
今日の京都散策の様子も後日、
本編のホームページにアップする予定です。
本編のホームページにアップする予定です。