昼間に携帯から投稿しましたが、
いま、京都に来ています(^^ゞ
いま、京都に来ています(^^ゞ
最近、年に1回ほど京都で行われる
シンポジウムに参加する機会があります。
京都で行われるシンポジウムは、
シンポジウムの終了後に史跡めぐりが出来るので、
いつも楽しみにしています^^
シンポジウムに参加する機会があります。
京都で行われるシンポジウムは、
シンポジウムの終了後に史跡めぐりが出来るので、
いつも楽しみにしています^^
今日は、午前中に出社して、
昼前に京都に向かいました。
昼前に京都に向かいました。
名古屋からだと、京都までは のぞみ でわずか36分です。
お昼の時間を利用して御所を早足で訪れ、
セミナー会場に向かいました。
お昼の時間を利用して御所を早足で訪れ、
セミナー会場に向かいました。
御所では、堺町御門から仙洞御所の外側をめぐり、
京都御所の建礼門から清所門まで歩き、
それから蛤御門に向かいました。
京都御所の建礼門から清所門まで歩き、
それから蛤御門に向かいました。
この蛤御門は、幕末の1863年(文久3年)、
8月18日の政変で京都を追われた長州藩が
京都に攻め入った禁門の変の主戦場になったところです。
1864年(元治元年)の事です。
8月18日の政変で京都を追われた長州藩が
京都に攻め入った禁門の変の主戦場になったところです。
1864年(元治元年)の事です。
吉田松陰の門下生で、松下村塾で高杉晋作と
塾頭の座を争った久坂玄瑞や来島又兵衛が
この戦いで命を落としています。
塾頭の座を争った久坂玄瑞や来島又兵衛が
この戦いで命を落としています。
そして、夕方シンポジウムが終わってから
高瀬川沿いに四条から二条辺りまで歩いてみました。
高瀬川沿いに四条から二条辺りまで歩いてみました。
今日は日没が迫っていましたが、まだ明るかったので
前回見落としていた史跡もいくつか見つけることが出来ました。
前回見落としていた史跡もいくつか見つけることが出来ました。
そのひとつが、桂小五郎蟄居の跡です。
長州藩の主要人物だった桂小五郎(後の孝允)は、
禁門の変の後も京都に潜伏し続け、その隠れ家が
彼の愛妾・幾松のところだったそうです。
禁門の変の後も京都に潜伏し続け、その隠れ家が
彼の愛妾・幾松のところだったそうです。
鴨川沿いの納涼床もある高級料亭になっていました。
そして高瀬川の北の端に近い一之舟入の様子です。
角倉了以が開いた高瀬川、かつては
船が荷物の上げ下ろしをする舟入が八箇所あったそうですが、
いまはこの一之舟入が残るだけです。
船が荷物の上げ下ろしをする舟入が八箇所あったそうですが、
いまはこの一之舟入が残るだけです。
川船が一艘置かれているのですが、
その前に、鴨が羽を休めていました。
その前に、鴨が羽を休めていました。
今日の京都散策の様子も後日、
本編のホームページにアップする予定です。
本編のホームページにアップする予定です。