携帯からも投稿しましたが、
今日は雨の中、静岡に行ってきました。
今日は雨の中、静岡に行ってきました。
用事の合間に静岡の街を散策していたのですが、
用事をしに行ったのか、街の散策をしに行ったのか
分からなくなるほど、あちこちに行ってきました(^^ゞ
用事をしに行ったのか、街の散策をしに行ったのか
分からなくなるほど、あちこちに行ってきました(^^ゞ
今日はまず、駿府城を再訪し、日本100名城のスタンプを押したあと、
タクシーで静岡市内の北にある臨済寺へ向かった後、
臨済寺から静岡浅間神社、そして瑞龍寺へと歩きました。
タクシーで静岡市内の北にある臨済寺へ向かった後、
臨済寺から静岡浅間神社、そして瑞龍寺へと歩きました。
そこからバスで新静岡へ出て、「静岡鉄道で音羽町駅に向かい、
清水寺、一駅戻って華陽院へと、静岡市内にある
家康に関連した史跡の多くを訪れて来ました。
清水寺、一駅戻って華陽院へと、静岡市内にある
家康に関連した史跡の多くを訪れて来ました。
駿府城の訪問記はこちらです:
http://www.geocities.jp/shanehashi/Travel/Japan/Oshiromeguri/SunpuJyo.html
静岡鉄道の乗車記はこちらです:
http://www.geocities.jp/shane_hsmt/Train/Japan/Shitetsu/Shizutetsu.html
http://www.geocities.jp/shanehashi/Travel/Japan/Oshiromeguri/SunpuJyo.html
静岡鉄道の乗車記はこちらです:
http://www.geocities.jp/shane_hsmt/Train/Japan/Shitetsu/Shizutetsu.html
静岡は家康が8歳から19歳まで今川家で人質生活を送り、
江戸幕府を開き、秀忠に将軍職を譲った後、
駿府城で晩年を過ごしています。
江戸幕府を開き、秀忠に将軍職を譲った後、
駿府城で晩年を過ごしています。
臨済寺は、その人質生活を送っていた時、
今川義元の軍師・大原雪斉が住職を務めていたお寺で
家康は太原雪斉から教育を受けていたそうです。
今川義元の軍師・大原雪斉が住職を務めていたお寺で
家康は太原雪斉から教育を受けていたそうです。
臨済寺の様子です。
この臨済寺は修行の場ということで、
「拝願謝絶」との札が門に掲げられ、
厳格な雰囲気でした。
「拝願謝絶」との札が門に掲げられ、
厳格な雰囲気でした。
背後の山が唸っているような感じでした。
臨済寺の近くにある静岡浅間神社には
1804年(文化元年)から60年かけて建てられた
極彩色の社殿が見事でした。
1804年(文化元年)から60年かけて建てられた
極彩色の社殿が見事でした。
瑞龍寺は、秀吉の異父妹で、夫と離縁させられて
家康の元にと嫁がされた旭姫のお墓があります。
家康の元にと嫁がされた旭姫のお墓があります。
また華陽院も家康が文学を学んだお寺だそうで、
家康と共に今川氏の下で暮らしていた
家康の祖母の源応尼のお墓がありました。
家康と共に今川氏の下で暮らしていた
家康の祖母の源応尼のお墓がありました。
人質時代の家康の事はよく知らなかったのですが、
祖母と一緒に今川氏の下で人質生活を送っていた事とか
今川義元の軍師で、その当時の今川氏の興隆に
大きく貢献していたと言われる太原雪斉に学んだ事等々、
少しはその時の事を理解することが出来ました。
祖母と一緒に今川氏の下で人質生活を送っていた事とか
今川義元の軍師で、その当時の今川氏の興隆に
大きく貢献していたと言われる太原雪斉に学んだ事等々、
少しはその時の事を理解することが出来ました。
特に戦国の乱世、今川家に属していたとは言え、
外様にあたる松平氏からの幼い人質に、
今川氏の軍師を努めた程の大原雪斉が
直接、家康に教育を施していた事は驚きました。
外様にあたる松平氏からの幼い人質に、
今川氏の軍師を努めた程の大原雪斉が
直接、家康に教育を施していた事は驚きました。
なぜ、太原雪斉は家康に教育を施したのか、
少し時間をかけて、考えてみたいと思います。
少し時間をかけて、考えてみたいと思います。