中国は、漢字の国です。

 

だから、筆談でコミュニケーションが出来るという人もいます。

 

でも、単語レベルでも異なるため、話がかみ合わない場合があります。

 

例えば、中国の国父と呼ばれる孫文も、中国では孫中山と書かないとわかりません。

 

 

 

中国大陸でも国慶節には、天安門広場に孫文の絵が掲げられます。

 

 

辛亥革命により、中国を封建社会から脱却させた功労者とされています。

 

しかしブルジョアゆえ袁世凱に革命の果実を掠め取られた弱さも。

 

出身は農家とされていますが、任侠一家という研究者もいます。

 

なぜ、中国で孫中山と呼ばれているのかと言うと、日本と関係あります。

 

日本へ政治避難していた時代、中山樵という偽名を使っていたからです。

 

ちなみに日本で人民服と呼ばれている服も中国では中山装と言います。

 

孫文が着ていた服、という意味で、そう呼んでいるのです。

 

これ実は、日本の学生服がベースとなった服なのです。

 

孫文が学生服の機能性に着目して改良したものです。

 

1913年10月25日に日本の神戸で宋慶齢と結婚します。

 

 

しかし、妻の他にも妾がいたことは、あまり日本では知られていません。

 

 

左は宋慶齢と結婚するため離縁された元妻の盧慕貞。

 

中は妾の陳粋芬です。(「平妻」とは凄い言い方ですね。)

 

さらに日本人妻や日本人の妾もいたとされてます。

 

 

写真は日本人妻の大月薫、他に妾の浅田ハルがいました。

 

辛亥革命が、日本の国粋組織、黒龍会の援助を受けた事もあまり語られません。

 

 

この組織は、福沢諭吉のような脱亜論ではなく興亜論でした。

 

亜細亜の後進性から亜細亜を見捨てるのではなく連帯して復興することを目指していました。

 

亡くなる1年前、神戸高等女学校で行った大アジア主義の演説にも、その影響は出ています。

 

欧米式の覇道ではなく、中国伝統の王道、徳のある統治でアジアは連帯すべきである。

 

その思いを日本の軍部や政府が大東亜共栄圏という形で曲解したとされています。

 

歴史については、やはりその時代の人間でないとわからない事も多いと思います。

 

でも確実な証拠を積み上げていけば、限りなく真実に近づけるのではないか。

 

そのように思います。

 

大切な事は、「不都合な真実」から目を背けないことです。

 

孫文については、様々な光と影の部分があります。

 

光だけ見ても、また影だけ見ても、真実には近づけません。

 

そういう態度でなければ、永遠に正しい歴史認識は得られないでしょう。