恥ずかしながら、最近になってやっとフランスで起こったことテロの事を理解してきた。
嫁姑と宗教の問題は永遠に解決しないと友人が真顔で言ってたが、笑えるぐらいにその通りだと思う。いや、笑ってなんかいられないんだけど、なんだか妙に言い得て妙としか思えないから不思議なもんだ。
結果として双方に犠牲者が出たし、その双方の関係者の遺恨も残るだろう。
全く以て悲しい出来事だ。
しかし、経緯を知れば知るほど、今回のテロにおける真の犯人はどちらにあるのかは明確。いや、そもそもこの手の問題は基本的にはいつも同じ。そう、いつも同じだ。
それがどちら側の立場か。きっと、それは誰にでも分かるだろうし、分かっていてもここでは言いたくない。自分は当事者でもないし、関係者でもない。「正義」なんて言葉は立場でその姿と意味を変えるんだから、意味がない。まして、ここは日本。隣接する国もなければ、対立する民族や宗教すらいない。海を渡ればいそうだけど、仮定の場合の話も正義同様に意味がない。
つまり、世界の極東に位置する島国にはこの手の問題はいまいち理解しにくい。更にいえば、テロや戦争といった類しのものに疎い。なにかの番組で外国人の日本の印象が「平和を愛する国」とあったが、正確には表立った争いを避ける、だったり、概念だけで争いを嫌うという考えがあると思う。憲法9条は確かにその理念は素晴らしい。勝戦国側が考えたモノだと言われてたりするけど、素晴らしい。ガンジーだって手放しで称賛するだろう。イエスもハグしてくれるんじゃないか。でも、実際はそううまくはいかない。力なき正義は無力だよ。また、それがこの国に「平和ボケ」を植え付けたことも事実だと思う。
幼少期、僕は祖母とお風呂に入りながら戦時中の話をよく聞かされていた。あまり関係ないかもしれなし、それが直接的な理由ではないが、戦争映画もよく見てきた。そして、この2つに共通するのが虚無感。現実と話が噛み合わず、実感もなく過ぎ行く時間に疲労し、矛先と理由も無い怒りをただぶつけ、正義と自由の名のもとに正当化される殺戮。近年では戦争体験者もすくなくなり、その体験談も聞けない。いや、例えそのような機会があろうと明日の平和より週末の予定とその報告に勤しむ人たちににはtwitterで拡散しても無駄だろう。あの事件以来、明確な強国を示さなくなった戦争映画も既にその本来の意味も手法も尽され、大した影響力を持たない。現に僕の母は「人の殺し合いなんてなんでわざわざ見ないといけないの?」と言ってTV放送されていたイーストウッドの「硫黄島からの手紙」を無理やり変えた。
戦争の話を聴け、映画を観ろ、なんてこれっぽちも思ってはいないが、受け身でしか知りえない画面の向こう側の世界に何を感じるのだろうか?僕はあの事件をリアルタイムで見ていた。普段は見ないCNNを聴き取れもしない英語で見ていた。父はなんだかよくわからないテンションだったのを今でも鮮明に記憶している。僕と父には違いがあったのかどうなのかわからないが、間違いなく同じだったのは「何かスゴい事になってきた!」という事だったと思う。無責任な興味、だ。
僕はそれから宗教問題に興味を持ち、そこまで専門的に没頭したわけじゃないがその手の問題には正義も悪もないという考えだけは持とうと今でも決めている。復讐の結末はいつだって更なる復讐しか生まないのは歴史も漫画も証明してる。どちらかが、誰かがその全てを受け止めなければいかない。
宗教とはそもそも、弱い人間は作り出した最終兵器だと思っている。立派な言葉とごもっともな正論を武器に、触れられたくない場所を刺激し、コントロールするのものだと僕は考えていて、そこには正解なんてものはなく、間違いもない。
だから、そこを刺激するのは卑怯だし、情けない。
でも、だからといってそれが人を殺していい理由にはならないし、傷つける理由にも、怯えさせてもいい理由にもならない。
そしてこの手の対立には必ずと言っていいほど不敵な笑みで登場するのが「ジハード」という言葉。広義にして狭義の言葉。若さと熱意によって意味を都合のよい「正義」にもなってしまう言葉。あの唯一神が「否定には更なる否定を」と予言者に伝えたのは分からないが、「ジハード」という言葉が存在し、歴史的革命によって「自由とは与えられるものではなく、勝ち取るもの」だという事実が今回も、前回も、そしてこれまで何回も人類は同じ歴史を繰り返すし、これからも繰り返していくんだろうと思う。
中世や発展途上国ならまだよかったのかもしれない。でも、僕らの生きる現在は情報が全てだ。とある軍事評論家は「現代戦争において、最も重要なのは火力ではなく情報力」と言っていたのだが、純粋な意味もあるが、これは正義も悪も塗り替えれるということも含まれているのではないだろうか。
だから僕は信じない。鵜呑みにはしない。例え僕の尊敬する人の話であっても、一度は疑う。疑い、考え、決める。自分の体験したこと以外、基本は信じないと決めている。もし、他人の考えを鵜呑みした時は、言葉にできなかった言葉を言葉にされた時か、精神的に弱っている時のどちらかだと思っている。
さて、毎度ながら結局は自分の考えをグダグダと書き連ね、話がどんどんズレていくお決まりのパターンなのだけれど僕がこんな事を書こうと思った理由、久々にブログを書こうと思った理由、それはSEKAI NO OWARIがJohn Lennonに思えてきたからなのです。テロ事件の報道でフランス国民がレノンの「イマジン」を歌いながら(流しながら?)行進している映像をみて、ふと感じてしまったのです。彼らこそ現代における日本のジョン・レノンだ、と。
因みに僕は貪欲にポップミュージックを作る彼ら、EDMも飲み込もうとする彼ら、世に自分たちを知らしめようとする彼らの姿勢の支持者です。正直、エンターテインメントに満ちた彼らのステージはU2やRadiohead、Coldplayらと並んで“観たいアーティスト”のひとつです。
Todays song : Dragon Night / SEKAI NO OWARI
この曲はプロデューサーの力がデカいけど、Nakajinのソングライティングはやはり素晴らしい。rockin' on JAPANが彼のインタビューを載せたのは色んな意味で(記事を読んでないけど)面白かった。