「みんなの者に畏れの念が生じ…」 | 姫路シャローム教会

「みんなの者に畏れの念が生じ…」

皆さん お元気ですか? 今年もいかにも梅雨らしくなって来ましたね。

今日は7月8日礼拝で語られた聖書メッセージから恵みを分かち合いましょう。

「みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって次々に行われた。」

使徒行伝2:43.

1.「おそれの念」とは何か?

 「おそれ」とはどんなものなのでしょう? ①高所恐怖症のような「恐れ」もあるでしょう。…これは落ちたら死ぬという恐さで、思わず足がすくんでしまうものですよね。慣れてしまえば、そうでもないでしょう。

人を「おそれる」恐さで、生きてる人間が一番こわいというものです。虐められる恐さ、だまされる恐さ、裏切られる恐さなどです。この「こわさ」が心に染み込んでしまうと、人の性格も歪んでしまう場合が多々あります。

幽霊などの科学で説明のできない事にぶつかった時の「恐さ」です。目や耳の錯覚もあるかも知れませんが

本当に科学で説明できない事態に出会うと、私たちは身の毛もよだつ「恐さ」を感じる場合があるでしょう。

次に、絵にも描けない美しい大自然、しかもオーロラや無限の宇宙を実感した時、自分や人間という存在が、いかに小さい存在かを思い知らされた場合に知る「こわさ」もありますよね。


2.「畏れの念」は自分の意志によって生じたのではない。

 特に、この④の「おそれ」は、私たち人間の意志によって生じた「おそれ」ではありません。今日あげた聖書に出ている「みんなの者に生じた」畏れとは、実にこれだったのです。

先週、夜回り先生と呼ばれる学校の先生が、大阪の某町で講演をなさいました。その中で、彼は現代の子供や親たちの現状をたくさん話されたようです。「夜遊びを好む人々は、酒たばこ、賭け事、シンナー、麻薬、そして援助交際や絶望に行ってしまい、大自然の花や星々を見て感動することを忘れてしまっている」と訴えられた。

 現在はTVで法律番組も増え、「罪」を「罪とも思わない人」が増えています。 以前に某芸能人が言いました。

「法律は犯罪を犯してはいけないとは言っていない。刑務所に入ってもいいと思うなら、罪を犯してもいいんだ」と放送で言っていました。10年以上前の話ですが、現在は今の話となってしまいました。

本当の罪意識は人間が決めたり持ったりできるのではなく、もっと偉大な何者かが生じさせてくださるのです。

心からの喜びや本当の希望というものも、お金や世の楽しみが与えてくれるものではありません。

 私が若い時に信州伝道に行った折、マイクロバスで行ったのですが車中はイエス様に対する感謝と賛美歌に溢れていました。一人の人の提案で、千曲川や道路から見える大自然にも聖書の中で歌われているように共に賛美させようとなりました。「信州の空よ、山々よ主をほめたたえよ~」バス中に聖霊のバプテスマを受けていない女性がいました。隣や近くの女性たちが彼女のために祈ると、彼女は見事に異言の伴う聖霊のバプテスマを受けたのです。バスは喜びと賛美の感動に溢れました。これも人の意思が生み出したものではありません。


3.「この曲がった時代から救われよ」使徒2:40.

 初めにあげた聖句の前の、2:40は、「この曲がった時代から自分を救え」という意味です。罪を罪と言わない

社会から自分を救い出すのです。そこに甘んじて、朱に交わって赤くなっていてはいけないのです。

①私が聖書学校時代、某女性が入学したいと申し出ました。院長が面接すると、彼女は信仰は持っていたが、異言の伴う聖霊のバプテスマを受けていませんでした。しかし少なくても卒業までに受けるよう祈るという条件で許可されたのです。ある夜10時のリバイバル待望祈祷の時間に、各自がそれぞれの場所で祈っていたのですが、次第に聖書学校の食堂に行きたくなり私も行きました。すると、そこに例の女性が数人の女子学生に助けられて祈っていました。やがて、彼女は聖霊のバプテスマを受けて異言を語り喜びに溢れました。院長先生を呼びに行くと、

全員は子供のように賛美し、手をつないで輪になって喜びました。これも人の意志で起したものではない。

②この曲がった時代から救われるには、罪深い私達の心を大自然をも造られた神に向って大きく開くことです。

自分の意志によって「畏れの念」も生じさせられると思うのは高慢です。偉大な神に向って謙遜になるのです。

③2:41-42によると、この勧めに応じた人は3000人にのぼり、彼らはみんな、使徒たちの教えを守って一つになっていました。全ての弟子たちは、自分の意志によって聖霊をお迎えし、聖霊によって畏れも喜びももったのでした。

みんなの者に畏れの念が生じ…」彼らはいつも、聖霊と共に歩んでおり、自分中心ではなかったのです。

あなたも、初代のクリスチャンたちのように、これらの体験を現代、今、求めて体験することができるのです。

信じて求めましょう。洗礼は人間の意志と承認によってできますが、聖霊体験は神様にしか与えられません


あなたも聖霊体験のあるクリスチャンになりませんか? 希望や質問があればご連絡下さい。

姫路シャローム教会(姫路市北平野)079-222-7531.