🎶手繰り寄せる未来

       作詞:フジマニ 編集長

   神奈川県藤沢市のフリーマガジン

   フジマニ 「編集長の走り書き」より


       作曲:政応=まさおう No.104

 

手繰り寄せる未来

手繰り寄せる未来

手繰り寄せる 手繰り寄せる

未来

 

手繰り寄せようとしている

ちょっとでも良い未来を

大切なものを守るため

目に見えない積み重ねで

不安を振り払って

まだ見ぬ未来を 家族の未来を

日本の未来を 世界の未来を

少しでも良くしたいと 

手を伸ばす

歩みを進める

真面目に 真剣に

 

道の向こうは 行き止まりかもしれない

正しい道かどうかなんて わからない

でも 今 選ばなければならない

選んだ道が 目指すべき未来に

つながっていることを信じて

ただただ 信じて

 

だけど そんな日常から 

光が消える

理不尽な理屈や暴力で

あるいは自然災害

疫病で


突然 断ち切られる日常

希望 

そして 大切な人の命までもが失われる

 

残された僕らはどうすればいい

これまで通りに生きるだけでいいの

 

あの人が 手繰り寄せようとしていた

「ちょっとでも良い未来」に

なんとか つなげられないか

 

手繰り寄せる未来

手繰り寄せる 手繰り寄せる

未来

 

混乱 怒り 悲しみ 無力感

その重みに つぶされ 倒れ 泣き叫ぶ

そして 絶望


未来が どんどん 遠のいていく···

 

けれど 時が経ち

ひとり また ひとり

立ち上がる ヨロヨロと立ち上がる

 涙は 枯れ果てた

でも 歩き出す

 

それは 目に見える

希望があるからじゃない

ただ 歩みを進める 意思の力だ

未来を あきらめない 人間の力

 

「ちょっとでも良い未来」を手繰り寄せる力

「ちょっとでも良い未来」を手繰り寄せる力

 

手繰り寄せようとしている

ちょっとでも良い未来を

 

手繰り寄せる未来

手繰り寄せる未来

手繰り寄せる 手繰り寄せる

未来

 

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 藤沢市のフリーマガジン 

フジマニ 「編集長の走り書き」の言葉に

感動して作曲しました。

 

コロナ禍を生きる人々への力強い

メッセージが込められていると思います。

 

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◆お知らせ◆

 

2024年 3月27日(水) 午前10時~11時半

 

MIHOの朗読と音楽の会に

ゲスト出演します。

 

一週間の真ん中 wednesday morning 

朗読や音楽の喜びに触れてみませんか

 

会場: 茅ヶ崎 studio ONE 

 

※コロナ感染拡大防止対策をしています。

安心してお越しください

 

詳しくは 

 face book 「小倉政応(まさおう)」検索。を

ご覧ください😀

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ぎらりと光るダイヤのような日

 

      詩:茨木のり子

     作曲:政応=まさおう

 

 

短い生涯

とてもとても短い生涯

60年か70年の

 

お百姓は どれほど田植えをするのだろう

コックはパイをどれ位焼くのだろう

教師は同じことをどれ位しゃべれるのだろう

 

子供たちは地球の住人になるために

文法や算数や魚の生態なんかを

しこたま つめこまれる

 

それから品種の改良や

理不尽な権力との闘いや

不正な裁判の攻撃や

泣きたいような雑用や

馬鹿な戦争の後始末をして

研究や精進や結婚などがあって

小さな赤ん坊が生まれたりすると

考えたりもっと違った自分になりたい

欲望などは もはや贅沢品になってしまう

 

世界に別れを告げる日に

人は一生を 振り返って

自分が本当に生きた日が

あまりに すくなかったことに驚くだろう

 

指折り数えるほどしかない

その日々の一つには

恋人との最初の一瞥の

するどい閃光なども まじっているだろう

 

[本当に生きた日]は人によって

たしかに違う

ぎらりと光るダイヤのような日は

銃殺の朝であったり

アトリエの夜であったり

果樹園の真昼であったり

未明のスクラムであったりするのだ

 

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歳月

                詩:茨木のり子

       作曲:政応=まさおう

 

真実を見きわめるのに

25年と言う歳月は短かったでしょうか

90歳のあなたを想定してみる

80歳の私を想定してみる

どちらかが ぼけて

どちらかが 疲れ果て

あるいは二人ともそうなって

わけもわからず憎み合っている姿が

ちらっとよぎる

あるいはまた

ふわりとした

翁(おきな)と媼(おうな)になって

もう行きましょう と

互いに首を締めようとして

その力さえなく尻餅なんかついている姿

けれど

歳月だけではないでしょう

たった一日っきりの

稲妻のような真実を

抱きしめて生き抜いている人もいますもの

 

 

  

 ※茨木のり子 著作

 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよより