初歩的な宇宙物理学の本を読みました。宇宙は点から始まったという事です。ここでいう点は、数学的な点です。その点には、幅や高さ、面積などは存在しません。実際に私たちが診る事の出来ない概念的存在です。でも、宇宙はそこから始まったとされています。

 そこから更に話をつきつめて行くと、幾何学自体、概念的な物で、実際に私たちが見たり確認することはできません。

 つまり、円、直線、三角形、四角形など、あらゆる図形は、概念上の存在です。人間が描いた線には、太さがあります。それが無ければ見えません。どんなに正確に書いたつもりでも、必ず線は歪みます。歪んだ三角形の内角の和は、180度にはなりません。同様に四角形の内角の和も360度にはなりません。この時点で、三角形や四角形の定義から外れてしまいます。

 これら全ては、概念的存在なのです。しかし、理科系と呼ばれる学問には、数学は不可欠です。数学が無ければ、理科系の学問も今日の様には発展していないでしょう。その数学の延長線にコンピューターがあり、その演算は2進法で成り立っているそうですが、私は数学が専門ではないので、これから勉強します。

 幾何学だけが概念的存在ではありません。算数のレベルでも概念的存在はあります。ご存じだと思いますが1/3×3=1ですが、0.3の循環小数に3を掛けると0.9の循環小数になります。

 この様に、現代社会の基盤の一部が、現実には存在しない概念的な物をベースに成り立っているという事になります。

 点という概念的な存在から、宇宙空間という実在する空間が生まれ、生物が生まれ、文明をもったのです。しかし、その文明自体、概念的存在の理論が無ければ成立しないのです。これぞ正しく「色即是空」ではないでしょうか?

 在るようで無い概念的存在と、実際にある物、これが表裏一体となってあるのが、私たちの存在する世界で、その成り立ちも又、概念的存在からの発展だとすれば、世の中全て表裏一体で成り立っているのではないでしょうか?

昨日の日記で書いた事。

震災により原発事故が起き、

帰宅できない避難者が居る事や生活の糧を失った人が居る事など、

昨日の式典で陛下はハッキリと触れられている。


しかし、昨日と今日の報道では、その部分を放送した局は少ない。

私が知る限りでは無い。


原発事故を震災とゴッチャニして誤魔化そうとしているのか?

政府や役人、電力会社の考えそうなことだ。


昨年3月震災後、我が家では連日放射線に関する研究や意見交換が行われた。
東京電力のHPには、福島原発の安全性が強調されたページが掲載されたまま。
思わず笑ってしまいそうな話。
あらゆる上雇用を想定しているので絶対安全と書かれていた。

震災、津波、件発事故、ほぼ同時期に起き、距離的にも合致する為、
震災と原発事故を一緒に扱う事が多いTV報道だが、大きな疑問を感じる。
宮城県や岩手県の沿岸部の人たちは、復興することが可能だが、
福島県の帰宅困難地域の人たちに復興は長~い先の話。
放射性物質の影響が半減するまでに何十年かかるのだろうか?

震災の被災者の方々も大変な苦労である。
政府の対応も迅速とは言えず、憤懣やるかたない気持ちでいっぱいのはず。
大災害のときの党利党略で国会を運営する与党と野党第一党は許しがたい。

さりながら、原発の問題はちょっと違うのでは?
民間企業と政府がグルになって、様々な目論見があって始まった原発事業。
私が社会見学で行った浜岡原発でも、絶対安全を強調していたが、
その安全神話がウソだった。
紛れもなく人災である。

本来であれば、原発被災者の保障や賠償を真っ先にせねばならないのだが、
実際どうだろう?
土地を失い、家を失い、家畜を殺処分させられ、農地も失い、漁場も失い、
当然、仕事を失うことになって、故郷に帰れなくなった原因は
、一企業のずさんな管理による人災である。
行政の管理責任も当然重い。

これら人災と天災を同じ扱いをするのに疑問を感じてしまう。

事故当時、横須賀や横田の米軍基地では、
軍人家族の帰宅を促すアナウンスが、頻繁にあった。
東電や国はメルトダウンの事実を隠していたが、
諸外国は見抜いていた。
首都圏に住む数千万人を危険な目にあわせたのは事実。
これは、天災ではない。

先日、友人の娘さんが自殺した。

18歳。


就職も決まっていたし、彼氏ともうまくいっていた。

原因が思い当たらない。


友人は、3年前に離婚。

2人の子らは、母親と暮らしていた。


この友人と知り合ったのは小学校4年のとき、私の小学校に転校してきた。

それから約40年成人しても、私が東京に引っ越しても、友人であり続けた。途中多少のブランクはあったものの、やはり親友と呼べる数少ない人間である。


私は、2年前にステージⅢの癌が見つかり、余命幾ばくもないと言われた。

今にして思えば貴重な経験だった。

何よりも、家族のの大切さ、有り難さが身にしみた。

失いかけて初めて解った事。


私の場合は、大切なものを未だ失ってはいない。

辛うじてであるが未だ生きているし、普通の生活ができている。


私は、決意した。

予てより勉強していた仏教を真剣に学ぼう!

そして、出家した。

更に原点に戻ろうと昔読んだ「スッタニパータブッダの言葉」を読み返している。


改めて、自分が幸せを見つけ、そして幸せになり、その幸せの見つけ方を少しでも多くの人に伝えよう。

それが、私が誓った残りの人生の生き方。


私は、友人に何を言うべきか迷った挙句言った。

貴重な経験を生かす事が娘の供養ではないだろうかと・・・

彼は、素直に聞いてくれた。


自分の身に降りかかった不幸な事。

それを悲しむだけでは不幸のままだ。

不幸は、幸せを知るチャンスでもあり、学習の機会でもある。

マイナス×マイナス=プラス なのだから・・・

不幸というマイナスを何とかしてプラスに転じさせられるはず。

その道を探る助けになるのがブッダの言葉のように思う。


個人的見解ではあるが、仏教は信じて救われるものではないような気がする。

何かを見出さなければ何もない。

絶対神の教えや規則が無い分自由だ。

古来からある経典や修行法により己の力で何かを見出さなければ始まらない。


見つけ方は人それぞれ、やり方も人それぞれ・・・

故に様々な宗派が生まれたのだろうが原点は一つ。


生きることに役立ててこその仏教だと思う。








欲を捨てて、悟りを開く←仏教のイメージだと思いますが、


そんなに簡単に欲は捨てられないし、人間は煩悩だらけの生き物で、

貪欲ですから、不可能に近い。

この基準を日本の僧侶に求めたら、誰も該当しないかもしれない。

かなり少ないのは確かです。


貪欲な人間は、マンネリに弱く、刺激を求め続けます。

しかし、このマンネリ程幸せな事は無いのです。


家族が元気に笑顔で、毎日仕事に精を出し、たまに趣味でリフレッシュすること・・・


ドキドキすることは刺激的ですが、刺激はどんどん麻痺して行きます。


日常の幸せって見過ごすことが多いのですが、なくした時はショックが大きいものです。


歌にもあるように「なんでもないような事が幸せだったと思う」ロードのさびの部分ですが、言いえて妙です。


時にマンネリに思う事が、実は幸せの基盤です。それがあっての趣味や娯楽。


人間気付くか気付かないかで幸せの度合いが変わってきます。


これが、生きる為の仏教の基本です。


故に日々に感謝するのです。

幸せは与えられるものではなく、それに気づきさえすればよいのです。


もう一度身の回りを良く見直し、幸せを見つけてください。