これまた斉藤一人さんの講話からの学びです。

「私は愛と光と忍耐である」この言葉を一日100回1000回言いなさい。

という内容がありました。

人は幸せになるために生まれてくるものであり、最初から悪事を働こうと生まれてくる人はいない。

でもさまざまな経験から原因的絶対者であり、人間を作られた存在(多くの人は神様って呼びますよね)の願いとは逆の生き方をして、またはせざる環境に追い込まれて悪を行ってしまってきた。

しかし神様は愛であり、光であり、忍耐であられる。

人も元来は愛であり、光であり、忍耐であるように作られている。

ということで、自分は愛であり、光であり、忍耐であると知り、言葉にして、意識して生きることが絶対者が望まれる本来の人間の姿なのですね。

何か問題が起こっても「愛であり、光であり、忍耐であるならば、どう対処するだろうか」
こう思うだけで視点が全く変わってくる。

個人的な話ですが、今日、朝から姑が
「私の服がない、マフラーがない、靴下がない。お前どこやったんだ」
と私に対して怒りまくっておられました。

私は義母のものには洗濯等をしたとしてもタンスや押入れにはノータッチでお部屋にたたんでお渡ししていた。

義母の物をどうこうする事はないし、部屋の中を勝手にみたりなんてしない。

それでもずっと「お前がなくしたんだ。どこやった。誰にくれちまったんだ」
等々ずっと怒鳴り上げている。

以前の私だったら「そうですか、それでも私は知りません」と言いながらも
「自分でどっかにやっといて私に八つ当たりして…ないもんはないし、知らないよ」
と怒りの感情でいっぱいになり、憎しみにまで発展していたと思う。

しかし、「私は愛であり、光であり、忍耐である」と思いながら聞くと

「もどかしくて怒ってらっしゃるんだな」
「こんな風にしか表現できず、可哀想な人だな」
「心が落ち着いて、早く見つかりますように」
などと思えるようになり、
一緒になって怒って自分の感情や家の中の雰囲気まで悪くするようなとこまでいかずに済んだ。

苦しい人に引っ張られて、周りの人まで苦しくなったり、不幸になったりしたら大変。

元気な人がいないと、その苦しみから脱することは出来ない。

なんと罵られても相手や周りの人の幸せを願い生活する。

そうすることが幸せへの近道だなと実感した出来事でした。