信仰の選択肢
日本人は海外の人々に比べ非常に宗教観・信仰観が希薄だと言われています。
正月は初詣に神社へ行き、お盆はお寺からお坊さんを呼び、クリスマスを祝う。
海外の人間からはこの行為は信じられないことらしく、また「無宗教です」と海外で言うと文化人・常識人として扱ってもらえなくなるらしい。
このように日本人は宗教に対して無関心ながら、いざとなると
「先祖代々の宗旨を捨てるわけにはいきません」
「宗旨を変えるのはご先祖様に申し訳ない」
という台詞を耳にすることがよくありますが、今我々が信仰している宗旨というものは江戸時代の寺檀制度からきているということをどのくらいの人が知っているんでしょうか?
江戸時代にはキリスト教が禁止されていました。一般民衆はキリスト教徒でない証拠として各村にあるお寺に所属していることをお寺から証明してもらわなくてはいけませんでした。つまり自分の住んでいた村にあるお寺に好き嫌い関わらず強制的に所属することが義務付けられていたわけです。その為に江戸時代には宗教に対して自由な選択ができませんでした。
明治維新に入り寺檀制度も無くなりましたが、江戸270年もの間続いた制度ですので、未だに地方ではこの制度がしっかり根付いており、また都会でも同様な状況が見られることがあります。
先に書いた「先祖代々の宗旨」という下りがありますが、実はそのご先祖は半ば押し付けでその宗派の信仰をせざるをえなかったことを歴史の流れから我々は学ぶ必要があります。
宗教の選択は自由であったとしても、今は度重なる新興宗教の不祥事で宗教そのものに対する不信感は募る一方です。
しかしながら仏教は紀元前の時代から変わることない価値観を提供し続けているわけですから、自分自身の行き方の指針の一つとして勉強してみるものよいことではないでしょうか?そこで自分自身がコレだと思う宗派に出会いその宗派を信仰したとしてもそれは決してご先祖に対して申し訳ないことではないのですから。
最後に本門佛立宗開発教導長松日扇聖人(長松清風)の御教歌を二首あげてまとめに代えたいと思います。
「親からの宗旨をすてゝ孝行の
とむらひとなる妙な法哉」
「方便の宗旨を捨て真実の
みのり持ちて先祖とぶらへ」
秩序の崩壊
日本から恥の文化が消えつつあると聞いて久しくなります。
先日外出先でバスに乗る機会があり、バスの到着まで待ち時間があり相当人が並んでいました。
バスが到着し、当然ながら並んでいる順番通りにバスに乗り込んでいくのですが、私の前に並んでいた女子高生がずいぶん後ろに並んでいた友人を呼んで自分の前に連れてこようとしましたが、近くにいた中年の男性に注意され結局元の位置に戻っていました。
ここでは注意する人物がいたので順番を飛ばすことにはなりませんでしたが、電車やバスで順番を飛ばしたりして誰も注意できないシーンに出くわすことが時々ありますし、電車の入り口で座っていたり、携帯電話で大声で話しをしたりと様々な常識外れな
最近ではこういった当然守るべきルールが守れない人が多くなってきてはいませんでしょうか?
昔は見知らぬ人であっても互いに注意しあうのが日本の風土でした。
しかし今では注意をしたが為に逆に注意した人物から怒りをかったり最悪の場合はそれが犯罪に発展したりする場合もあります。
今では「キレる」という言葉に象徴されるように、人が明らかに常識はずれな行動をとっていたり、またその場の秩序を乱すような行動をとっていても注意しにいくい時代になってしまいました。
逆に考えればもし自分が外に出て人から嫌がられるまたはモラルに反する行為をしていても注意をされることが少ないということです。これからは他人の行いを見て自分自身はキチンと出来ているのか振り返り反省する必要があります。
会社やアルバイトでも注意をされているうちが華で、注意をされなくなる=どうでもいい人間と思われている事が多くあります。
人に注意をされれば、それをしっかりと受け入れ、また反省できる心をしっかりと持つことが大事であり、またそういった心を自分自身で育てることが出来るようにしなくてはいけません。
最後に本門佛立宗開発教導長松清風日扇聖人御教歌に
「言の葉と身の不行儀をたしなめば
それで世間の常の人なり」
自分自身で言動に気をつけ、もし人に注意されるようなことがあったらそれをしっかりと受け止めることの出来る人格形成にお互いに努めましょう。
財施と法施
世間ではよく
「坊主丸儲け」
という言葉を耳にすることがあります。
これは坊主は拝んでるだけで金が入ってくるという事に対する批判であり皮肉をこめた言葉であると考えています。
しかしながら坊主が拝んだことに対して金を渡すのは当然というのは根本的に間違いであることに気づいていただきたいです。
布施というのは立派な仏道修行のひとつです。
布施行は大きく、「財施」と「法施」に分けることができます。
「財施」は金銭や物を施すこと
「法施」は仏の教えを施すこと
つまり、僧侶と信者は互いに布施行の修行を行っていることになります。
このことから拝んでもらったから金を包むのではなく、信者は僧侶から仏の教えを施してもらったことに対して財を施すことでそれに報いそれが修行となり自らの徳に繋がって行くわけです。
逆に僧侶も限りある信者の尊い財を施してもらうわけですからより分かりやすく実践的な教えを信者側へ施さなくてはならないわけです。
今、私が知っている範囲の話ですが
「あそこはケチでだから布施が少ない」という僧侶や
「お金はあるけど包みたくない」という信者方が少なくありません。
これは僧侶と信者の間での負のスパイラルに陥っているのだと考えています。
僧侶は布施が少なければ、自分が説く教え=法施には今これだけの評価=財施しかないのだからもっと研鑽させて頂こう、信者は今の教え方には多々問題があるかもしれないが期待をこめてこれだけ包む=財施をさせて頂こう、という考え方が大事ではないでしょうか。
僧侶・信者共に生活という問題がありますので財施に冠する問題は簡単には触れることは出来ませんが
より互いに徳を積める心へとお互いに研鑽してゆく必要があります。
これからは僧侶からの一方的な教えを聞くだけに終わらず、信者から積極的に教えの評価を行い僧侶はそれに耳を傾けるべきです。仏法は僧侶のためではなく万人の為にあるのですから。
最後に本門佛立宗開導日扇聖人 御教歌を二首あげておきます。
「いさヽかの有志もだせぬ手元にて
物見湯山は何の事かい」
「そんしたと思ふてくれな御供養は
はりこんだ程徳がいくなり」
