戯画日誌/劇場版『宇宙戦艦ヤマト』4K版2作を映画館とテレビモニターで見て、思ったこと | 戯画日誌

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キネマ旬報でやっていた連載を受け継ぎつつ、アニメーションに限らず映画全般、書きたくなったものを書いていこうと思います。

2023年12月から2024年1月にかけて『劇場版宇宙戦艦ヤマト』『さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち』の4Kリマスター上映が開催され、その画質の再現度などに度肝を抜かれたのだが、その4KUHDソフトを購入する予算は正直厳しいので、とりあえずスターチャンネル4Kに加入し(3月でチャンネルそのものが終了してしまうのだが)、両作品の4K放送を録画することにした。




いやはやどちらもすごい。というか、やはりそうなるとソフトそのものまでがほしくなってしまうほどなのだが、それはさておき、今回最も嬉しかったのは『劇場版宇宙戦艦ヤマト』1977年初公開版を、それこそ初公開以来46年ぶりに鑑賞できたことだ。


この作品、TV シリーズの総集編なのだが、いろいろ微妙に改変されているところがあり、中でもクライマックス、ヤマトがイスカンダルに着いたらスターシャは既に死んでいたという驚きの改変がなされていた。

当時、中学二年だった私は「テレビと映画は違ってていいんだ」と妙に納得したものだが、それから一年後のテレビ放送の際、そのシーンはTV放送と同じ、スターシャは生きていて、死んだと思っていた古代守と結ばれていたというものに直されていた。

恐らくは劇場公開時、ファンからのクレームが殺到したのだろう。かくしてスターシャ死亡編は封印され、以後はスターシャ生存編が正式版として残されることになったのである。


たはだ、私は当時からスターシャ死亡編の方が松本零士が描く女性の神秘性にふさわしいような気がしてならず(そもそもテレビ放送時、スターシャが人間の男と恋愛しているという生臭くベタベタした設定にがっかりしていたのだ)、それは本作のポスターワークなどに描かれたスターシャ像とも呼応していた。


劇場版第1作は、舛田利雄監督の意向が反映されて戦争映画色が強まっていたようにも思う。

台詞の改変にしても、テレビ版より劇場版の方が軍隊的上下関係などがさりげなく強調されているようだ。


もっとも、当の舛田監督ご本人にお聞きしたところ、テレビ版には本当に最初の方だけ会議に参加したくらいで、劇場版もちょっと映画的なアイデアを出しただけだったという(しかしWikipediaなどを読むと、彼の案がかなり採用されていることもわかる)。


舛田監督が「これは俺の映画だ!」と胸を張れるのは、続く『さらば宇宙戦艦ヤマト』だったと、私は直接監督ご本人から聞かされた。


『さらば』は日頃アニメを見たこともない左翼系の大人たちから特攻賛美、自己犠牲の肯定などと批判されたりもしたが、実のところ日本のアニメは日本初のテレビ30分アニメ・シリーズ『鉄腕アトム』最終回以降、幾度となく特攻や自己犠牲を描き続けてきていた。


それは特撮ヒーローものも同じで、その伝では当時それらを見て育ってきた私らのような世代には何ら違和感もないものであり、さらに今の目で申すと「もうこれ以上打つ手はない!」とまで見る側に納得させてしまう舛田監督の手腕には改めて唸らされてしまう。


特攻や自己犠牲の美学は、戦争という過酷な時代を通過してきた当時のスタッフの多くが肌に染み着けていたものだったのかもしれない。


そういえば松本零士は『さらば』制作にあたって、前作で沖田艦長を死なせていたことを後悔していたという。

「若者たちは死ぬべきではない」と映画のラストに最後まで反対していた彼は、代わって沖田に特攻を委ねたかったのかもしれない。


いずれにしても『さらば』は大ヒットしたが、その直後に作られたテレビ・シリーズ『宇宙戦艦ヤマト2』は松本の意向通りに若者たちが死なないラストに代わり、多くのファンを愕然とさせると共に、以後の『ヤマト』シリーズはパラレルワールド化していく。


そして『宇宙戦艦ヤマト完結編』で、蘇った沖田艦長は若者たちを生かし、ヤマトと共に運命を共にしていった。


しかし実は既に劇場版第1作からしてスターシャ死亡編と生存編の二つにパラレルしていたことに気づくと、このシリーズはもともと分岐を余儀なくされる運命にあったのかもしれない……などと今さらどうでもいいことまで考えさせられてしまったのであった。