最近私の中で幼稚園からのキリスト教がだんだん怪しいものへと変わっている
今日の授業だがかなり気になった
罪(sin)
について。
これはcrimeの「罪(犯罪)」ではなく
精神的な罪らしい。
そしてコレをキリスト教では
「的外れ」
と、呼んでいる。
意味としては
「神の道を外れること」
だそうだ。
また、神の種類は人それぞれ。
ホリエモンなら「金」と、いうことだ。
そして的外れの種類としては
「自己中心主義」が初期。
自分は正しい、と思うことで
「自己絶対化」と進化。
(オレ・・・ネ申)ということで
「自己神化」いわゆる究極完全体。
そして、礼拝はそれを神の元へと戻すための儀式だという。
まぁそこはいいとしよう。
しかし、神だけが絶対なのだろうか?
人間誰しも罪を犯す。それを述べているのが聖書なのだが
よーするに
神の道をそれることは許されないのだから
他の神に鞍替えすることも
「的外れ」
なのではないだろうか。
ホリエモンが「金」の道から外れてはいけないということになる。
しかし、私はほぼ確実に神父たちはそれ(ホリの鞍替え)を善しとするだろう。
それこそ、
「自己中心的」
なのではないだろうか?
自分たちの神に鞍替えするのはよくて、
自分たちの神から鞍替えすることは許されないのである。
しかし個々の神こそがその人の神だという。
唯一神の思想はどこへいったのであろうか?
矛盾が生じている。
よーするに(Part2
自分たちの神こそが絶対な訳で、
率直に言うと
他の神はチンケなものだということではないのだろうか。
そして授業は原罪の話まで到達した。
図書部のクイズを司る者
「広辞苑」
彼(彼女)によると、
「全人類が生まれ持って負っている罪」
また何故そんなものを負ってしまったかというと
仏教徒でも名前くらいは知っているであろう
「アダムとエバ(イブ)」
彼らこそが原因だという。
詳しく言うと、
エデンの園には「禁断の果実」
「善悪を知る実」と「知識の実」の二つがあった。
エバが蛇に
「この実を食べれば神に近づける」(ちょいあいまい
といわれ
「善悪を知る実」をアダムにもすすめて食べたという。
そして自分たちが裸であったことを恥じ、服をつくったところ
神がそれを見てアダムに
「食べたんか?」と聞いた
するとアダムは
「エバに唆されて食べました」
といった
するとエバは
「蛇に唆され食べました」
と、いう。
これで二人は追放。
蛇は地を這う姿に換えられたと言う。
つまーり
「責任転嫁」と「善悪を知ったこと」
こそが人類にとって最初の罪であり、
その後も受け継がれているという。
私はその話を聞いて
「神って酷だ。」
と思った。
それもそうだろう
キリスト教、旧約聖書(いわゆるユダヤ教)の
創世記であるが、
この世界(あくまで今私たちが生きている時空線)を全能なる神が想像したと書かれている。
まぁあくまで御伽噺的(おとぎばなしてき)なものだが、
なぜその神がわざわざ「禁断の果実」を想像したのであろうか?
そして、またわざわざ、それを食すことを禁じた。
その上、唆す蛇(悪魔の化身)を作った。
まぁここらへんで本題に戻ろう。
「うまれもって」ということには少々気がかりである。
生まれもっているのなら
赤ん坊
も含まれるのであろう?
しかしこれは
「生まれ持った」
わけでなく、
先祖代々
「教えてきた」
ことに他ならないのではないだろうか?
そしてコレ(善悪をしること)を「罪」とするが
これは全人類の進化とともに必要になっていくことではないのだろうか?
「人を殺してはダメだ」と、いうことを理解できなければ
アメリカのような銃社会では大変なことになるだろう。
やはり、殺人は立派な犯罪であるし、
「モーセの十戒」でもその掟は神と約束されている。
これらは全て神のシナリオなのだろうか!?
はぁ、いつやってもこの様な問題は堂々巡りだ