私は人間の善性を信じています。
性善説と性悪説、どちらを支持するかといったら、超・性善説派です。
ただし、人間は、人間だからこそ、何にでもなれる。
超~良い奴にもなれるし、超~悪い奴、にもなれる。と思っています。
そして、つまるところ、善悪は、ない。……とも。
なので、超良い奴も、超悪い奴も、(他人からめっちゃ違って見えるだけで)
好きでそれをやってるだけの、何の差もない、ただの「あらわれ」です。
でも、みんないいやつ。なのです。
もとのもとは、みな同じ。
バラバラになったあとも、根っこではひとつなのです。
命…には、向かう方向があります。
(命と言うか…あらゆるモノ)
ひとつのところから花開くように拡大しながら、空間に新しい模様を刻みながら、あらわれながら、
それでいて、もとに戻ろうとする、うねりのような方向性、意思。
それにうまく乗れていると、(一般的な)幸福感とか、充足感、(ポジティブな)活力などを感じます。
でまぁ、ふつうとは逆方向に爆走してみたくなった、あるいは、するべくして逆行するモノたちが、いて、
そういう、流れに抵抗するモノたち(の意識)から、あらわれたものが、
(通常の)方向をのぞむモノからすれば、「悪」や「闇」であり、
悪行と呼ばれることをしでかしている…のです。
でも、向こうからは、通常の方向を望むモノこそが、「悪」や「闇」であり、脅威です。
そして、「悪」や「闇」といった、「抵抗」が、不要かと言ったら、んなことはないのです。
それがあるから、「自分」が見える。
それがあるから、「闇」と「光」を認識できる。
それがあるから、「向かうべき方向」に邁進できる。
それがあるから、辿り着ける。
そういう側面があります。
互いに、障害ではあるのですが、
互いに、必要としていて、
結局のところ、「自分自身の影」でしかなく、
敵であって、敵でないのです。
どちら向きでも、行きつく先は、実際のところ、同じです。
どっちにしろ、帰るのです。
何をよしとするかは、その存在次第であり、
特に人間は、どっちに向くのもOKな仕様(?)になっています。
その人次第で、何でもできる、ということです。
だからこそ、正しく自分を…自分の「可能性」を認識することが大切です。
個の自分として。
人間・人類の自分として。
もっと大きな枠組みの自分として。
「善」を行える・行っている可能性と、「悪」を行える・行っている可能性を。
そして、自分で、「何を善とし、何を悪とするか」を選び、
それがどのように「逆からは」見えるのか知っていれば、
(または、あらゆることが、善でも悪でもなく、その両面を孕んでもいることを自覚していれば)
納得して、行きたい方向に向かって進むことができます。
何が言いたいかというと。
この一連のコロナ禍を計画し、ワクチンを打ちまくって人を減らそうとしている存在がいたとして、
何してくれとんじゃ、と憎んだところで意味がないということです。
向こうも好きで、それがイイ!!!と思って、信念をもってやっているので、
いくら、反対側から、そんなん間違ってる、とか、非人道的だ、止めろ、とか指摘したところで、
聞くわけがないのです。
ただし、「方向性を見失っているだけの人」であれば、
呼びかけて、「自分サイド」についてもらうことが可能です。
もう完全に染まっている人は、無理です。諦めるしかないと…思います。(お互い様w)
それもそれで、経験なので、いいのだろうと思います。
私は、日和見の人が(無自覚のうちに)ゴッソリあちら側に持っていかれそうなので、
それをどうにかしたくて、無駄なあがきと知りつつも、わーわー言っているのです。
どんな矛盾や意味不明な言動を揶揄されようと、
必死にアジェンダを遂行しまくっている人たちは、
あちらもあちらで、命がけでやっているのでしょう。
金融資本でいったらあちらが圧倒的有利ですが、人数で言ったら圧倒的不利ですから。
たとえば今、
日本で、日常的にマスクをしている人と、外している人の比率が真逆だったら、彼らは何もできません。
ワクチン会場をこしらえようと、密です!!罰しますよ!!などと盛んに言おうと、
誰も「ハァ?」というリアクションで、言うことを聞かなければ、何も出来ません。
…。まぁでも完全にマスク装着を受け入れてこの真夏でも、どこ行ってもマスクマスク。
おかしいのは分かってるけど、なんか言われるのが怖いから取らない、と言う人が多いのか、
それとも、完全に演出されたコロナ禍を信じ切って、マスクには効果があると信じ切っている人が多いのか…。
人を疑わない素直で性根のいい人ほど、騙されて命を刈られていく。
「あちら」の言い分も知ってるし分かるんですが、
向いている方向が違うので、私には、それはねーよとしか思えない。
ゴールは破滅…以外になんかあるんでしょうか。
いずれにせよ終わるものではありますが、「終わり方」「終わらせ方」ってものがあるだろと…。
私は、
「単一・均一・唯一」の統制・規定された「ひとつ」ではなく、
「みんな違って、みんないい」の、心理的な一体感の「ひとつ」がいいのです。
正しいこと、あるべき姿などを「唯一無二」に規定する考え方は、恐ろしいです。
意見の対立があってもいい。好きなもの、嫌いなものが違ってもいい。
ただひたすらに片方を支持し、反対側を駆逐すればいいというものではありません。
あらゆるものが「唯一無二」であると思うので、それを大事にしない方向性は、
(実際には正解も間違いも存在しないとはいえ)私は、嫌なのです。
という なんかよくわかんない話でした。
私は長~~い暗黒期間を経て、自分の性悪な部分と脳内で殴り合いの喧嘩をして、
結局、鏡なのだと…。相手からしたら、私が闇なんだと…いうことを認識しました。
そういう泥沼の期間を過ごさなくてよかった、割と幸せな日常を送れてきた人は、
カジュアルに悪を断じ、悪気なく正義を振りかざし、私と向こう側は違う、と思いがちのように見えます。
あいつらは悪性腫瘍、うちらはまともな細胞。…みたいな。
間違っているものを存在ごと罵倒し、快感に酔いしれていることも。
その物凄いどす黒さを、反対側から見ると闇であることを、認識せずに。
別にいいんですよ。そのままの認識でも。
ただ、あっちもこっちも、ほんとは無いんだよ。ってことを。
誰かを悪だと指さすあなたも、その人であり、だれもがそう、なんだよ。ってことを。
ちょっとは意識して過ごしていたほうが、
今後、右往左往せずに生きていけるだろうな…と思うのです。
どういう方向性の人・行動が多い未来がいいのか。選ぶ時です。
結局のところ、どっちでもいいんでしょうけどね。