児童養護施設 愛児の家(社会福祉法人 愛児の家) | 企業・組織・創業者・社長・代表リサーチ

企業・組織・創業者・社長・代表リサーチ

あなたが気になる企業や組織の創業者、社長代表者をリサーチしていきます。

■児童養護施設 愛児の家

愛児の家は、児童福祉法に基づき運営される児童養護施設です。
家庭環境などに恵まれない乳児以外の子どもたちを養護・育成していく。

昭和20年11月1日にまで遡るが、発足は太平洋戦争による幼い犠牲者を救うための戦争孤児救護婦人同志会からであると言われている。時代の流れと共に、戦争孤児救護婦人同志会から「愛児の家」へと名前が変わり、現在も家のない子どもや恵まれない境遇にある子どもたちの養護活動に努めている。
愛児の家の職員は、園長1名に事務員が1名、保育士・指導員が10名、家庭支援専門相談員が1名、心理療法担当職員が1名、調理関係者4名、非常勤職員が若干名と信頼できる職員が多く在籍しており、児童の定員は36名となっている。

■愛児の家の前身「戦争孤児救護婦人同志会」の歴史

終戦後間もない東京の地にて、戦争孤児を引き取る活動をスタートさせたある一人の女性。
昭和45年11月に戦争孤児救護婦人同志会を設立した貞代(さたよ:享年92)であった。
愛児の家の前身となる婦人会を創ってからというもの、東京・上野駅に足を運んでは地下に寝泊まりしている孤児(当時は駅の子と呼ばれていた)に声をかけつづけ、厳しい生活を強いられてしまっている子どもたちの母親代わりとなった。
そうして始めた活動だったが、いつしか子どもたちからは「ママ」と慕われていた。

多い時期には100名以上の子どもたちが暮らした場所は、現在の児童養護施設 愛児の家となり、現在もなお草創期の記録が残っており、戦後75年となった2020年には書籍化されるなど今改めて注目を浴びている。
貞代が活動を始めたのは1945年9月下旬のこと。

自宅で1人の戦争孤児を引き取ったことから始まった。

友人が戦争によって行く当てが無くなった6~7歳の男児を連れてきたことがきっかけとなった。

分かっていたのは名前だけで年齢もハッキリとは分かることはなかったというが、それから貞代は「戦後で日本中が大変な時期なのだから、出来ることをやっていこう」と戦災孤児救護婦人同志会が始まったが、現在は名前が変わり愛児の家として"行く当てのない子どもを養護する"という形は変わらず活動を引継いでいる。

■愛児の家 事業計画

愛児の家の職員は、憲法や国連・子ども権利に関する条約や子ども権利ノートにある理念を尊重し倫理網領を定めている。

1.専門職として養育の質と確保・向上に努める
2.子供の権利を積極的に尊重します
3.個人情報を保護します
4.家族関係などを尊重します
5.家庭養護と家庭養護の機会を提供していきます
6.地域福祉へ積極的に参加します
7.第三者評価を活用します
8.専門職を育成します
9.他の機関や他の職種と連携し、協動していきます
10.説明責任と法令順守の徹底

■愛児の家 養護理念等

”子供中心・家庭的養護・ゆとりのある生活”を養護理念に掲げる愛児の家。

民主的運営をモットーにしており、可能な限り情報公開に努めていきます。

昭和20年創立以来の歴史的蓄積の上に立ち、中野区という地域に密着し開かれた施設を目指していくとしている。
また、一貫性のある家庭的処遇を大切にしている。

集団という利点を利用しつつ、明るくて豊かな生活環境のなかで児童の自立に向けたサポートという視点に立ち、健全な育成に努めていく。職員による体罰や懲戒権の乱用、子どもとの不適切な関わりを一切禁じ、児童の意見表明権を第一に考えていく。

■愛児の家 子どもの自立支援に向けた取り組み

在籍する子どもの自主性を育む土壌は情緒の安定にあると考えている。

その基盤となるのは基本的生活習慣の確立にあり、愛児の家では躾を徹底し、全ての責任を負うとしている。
生活指導、行事指導、作業指導、クラブや同好会の活動、反省会などを通し、それぞれの分野に分かれ各々が独自性と創造性を発揮できるよう促していく。
子どもの自主性を育てる側(愛児の家)の心構えとしては、自主性と放任の違いを明確にし、まずもって大人こそが自主的な人間であることを第一とする。

不言実行となり、身を持って模範を示すことが要となっていく。

■児童養護施設 愛児の家 (社会福祉法人 愛児の家) 概要

名称 児童養護施設 愛児の家 (社会福祉法人 愛児の家)
創立 昭和20年11月1日
所在地 〒165-0032東京都中野区鷺宮3丁目2番13号
代表 (園長)石綿徳太郎/(理事長)神戸澄雄
連絡先 TEL03-3330-4493
事業内容 家のない子供、恵まれない境遇にある子供たちの養護、育成
公式サイト