会場から逃げだしたクミは病院の屋上で一人泣きじゃくっていた。
そのクミに声をかける者がいた。クレフ少年である。クレフ少年はマユミからクミが行きそうな場所を教えられて屋上まできたのだ。
「クミおねーちゃん、ごめんね。僕・・・」
「クレフ君・・・
いいえ、クレフ君は謝る必要ないです。クミの料理の腕前がまだまだだったから、クレフ君が喜んでくれるような料理が作れなかっただけです。だからもっともっと練習してクレフ君においしいと言ってまらえる料理が作れるようになるです」
それを聞いたクレフ少年は一瞬後ずさりした。すでにクレフ少年の脳裏には「クミの料理=不味い」の方程式が構築されていた。しかも、その後ずさりはしっかりとクミに見られていた。
「クレフ君、何で後ずさりするんですか!?」
返答に困ったクレフ少年は言葉を失ったままさらに後ずさりする。
しかし、突然にクレフ少年の体はそれ以上後ずさりできなくなった。
「クレフ君、男の子でしょ。逃げちゃだめよ」
いつのまにかマユミがクレフ少年の背後に現れて、その両肩をがっちり掴んでいたのだ。
「クミちゃん、今日の勝負はクミちゃんの勝ちよ。この前は叩いたりしてごめんなさい」
マユミは素直に謝った。しかし、クミにも自分が勝ったという認識はない。
「マユミさん、謝るのはクミの方です。だって、クレフ君の評価は完全にクミの負けです。それにいつも親切にしてもらっているマユミさんに勝負を挑むなんて・・・」
「クミちゃん・・・、じゃあこうしましょう。今日の勝負はクミちゃんの勝ちだけど、クレフ君がまた食事を残すようなことがあったら、今度はクレフ君だけを審査員にしてまた料理勝負をしましょう」
こうして、マユミとクミとクレフ少年の間で仲直りという名の悪魔の契約が成立した。
その日の夕方。
東棟の301号室では入浴を済ませた3人の老人が談笑をしていた。
「それにしても、昼間のあの料理は不味かったですな」
「そうそうクミちゃんのアレ。この世のものとは思えない料理でしたぞ」
「危うく、迎えに来た息子に連れて行かれるところでしたわ」
「あー、ワシのとこは婆様じゃった」
「女房・・・」
「まったく、どうやったらあんなに殺人的に不味いカレーが作れるのですかな・・・」
「ああ、しかし、マユミちゃんには悪いことをしたわい」
「そうですな。でも、クミちゃんにあんな泣きそうな目で見られたら、クミちゃんに上げないわけにもいきませんからな」
「そうそう、タチバナの爺さんが先にああ言ってくれたおかげで、助かりましたわ」
病室は3人の乾いた笑いで包まれた。
そのときドアをノックする音がした。仲直りを終えたマユミとクミが夕食を運んできたのだ。3人はそれぞれ前掛けをつけ、献立通りのじゃがいもとニンジンのスープを口に運んだ。
その瞬間、3人の老人達の細胞を「食うな!」という信号が縦横無尽にかけ巡った。老体に僅かに残された生命維持本能が、ロウソクが燃え尽きる前のように激しく活動したのだ。見た目は全く違う普通のスープであるが、その味はまさしく昼間食べたクミの殺人的に不味い料理のそれである。
ジフ老人がろれつの回らない口調で尋ねた。
「マ、マユミちゃん、これはいったい・・・」
マユミは微笑とともに答えた。
「今回のは結構自信作なんですよ。昼間、クミちゃんに負けたから約束通り美味しい食事をと思って。昼間のクミちゃんの料理がお年寄りの方には評判がよかったから、その味を参考にして作ってみたんです。あの味って、カレーに色々なものを混ぜなくても、ハチミツにお酢を入れてちょっと焦がせば似た感じの味になるんですよ。しかも、これなら健康にも良いんです」
『絶対味覚』
それはマユミの常人離れした才能の一つである。卓越した味覚の認知能力と、どんな味でもその本質を理解することで、全く別の食材からでも同じ味を作ることができるのだ。
ただし、その味の美味い、不味いは別の問題である。
3人の老人はマユミの料理の才能に敬服するとともに、己の考えの浅さを後悔した。しかし、それによって事態がよくなるというわけではない。あらためて、目の前に置かれた院内食を見つめる。
その様子を見たマユミが不安になってたずねた。
「この味じゃありませんでしたか?」
いや、味は昼間のクミの料理の「不味い部分」を見事に再現している。むしろ問題はその味が激不味なことと、自分達がその場の雰囲気に流されて昼間はその味を「美味い」と言ってしまったことだ。
「い、いや、間違いなくこれは昼間食べたクミちゃんの料理の味と同じだ。さすがマユミちゃ
んじゃ」
「ほ、ほんとにそうじゃ、ワシ、涙が止まらんぞい(悪い意味で)」
「ま・・・、美味い・・・」
3人はそれぞれ決死の覚悟で不味い料理を口にほおばった。3人の反応を見て、隣にいたクミもご満悦である。
「お爺ちゃんたち、おいしいものが食べられて嬉しそうですぅ」
マユミも満悦気味にさらに言葉を続ける。
「よかった。実はこのレシピって中華風とかイタリア風とか応用も色々できるんですよ。だから、毎食この味でも飽きずに」
それを聞いた3人の老人は一斉に咳き込んだ。こんな不味い料理を毎食続けられたら・・・
慌てて背中をさするマユミたちに老人たちは答えた。
「い、いや、こんな美味しい料理を食べたら、本当に退院したくなくなるかもしれんからのお」
「そ、そうそう、せめて月に一回くらいに」
今のはジフ爺さんの発言である。言った本人も不用意なことを言ったことに直後に気付いたがあとの祭りである。マユミは少し考えてから言った。
「そうですか。じゃあクミちゃんのレシピの料理は毎月一回にしましょう」
つまり、毎月一回、あの激不味料理を食べなければならないということではないか!
『ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!』
3人の老人の叫び声がそれぞれの心の中だけで響き渡った。
この一件以降、クレフ少年は好き嫌いなく何でも食べるようになったが、その理由はクミの料理を食べさせられたくないからである。院内食の方がまだマシという思いがそうさせているようだ。
また、3人の老人達は「あの料理」が出る毎月第2月曜が近づくと、人知れず、身内への遺
言を書くようになったが、これは3人だけの秘密である。
ショージ祖父さんは、あれ以降病院に姿を現していない。
こうして、マユミとクミの仲たがいは幾人かの心と胃袋に深い傷跡を残しながらも円満に解決した。
おわり
脳内CV:
マユミ・カーム :川○綾子
クムフェルド・タチバナ(クミ) :清○愛
アルテタリア・ゼレコフ :田○理恵
リーゼロッテ・マイエル :中○麻衣
ショージ・タチバナ(立花昭二) :若○則夫