お金がない。

その苦しさは、数字だけでは分からないものがあります。

今月の家賃をどうするか。

食費をどこまで削れるか。

子どもの服が小さくなった。

学校から集金の封筒が来た。

電気代の請求書を見るのが怖い。

そんなことが重なってくると、人は少しずつ、考える余裕を失っていきます。

もちろん、貧しいから子どもを傷つけていい、という話ではありません。

虐待は、子どもに深い傷を残します。

そこは、曖昧にしてはいけないでしょう。

でも、「ひどい親だ」という言葉だけで終わってしまうと、見えなくなるものがあります。

人間は、追い詰められると、いつも同じように優しくはいられません。

眠れていない。

働いてもお金が足りない。

相談できる人もいない。

夫婦関係もうまくいかない。

子どもは泣く。

明日の支払いも待っている。

一つなら耐えられたことが、いくつも重なる。

そして、逃げる場所がなくなっていく。

虐待は、一つの原因だけで起きるものではありません。

親自身の状態。

家族関係。

孤立。

仕事。

そして経済的な困難。

それらが絡まり合った先で、本来守られるはずの子どもへ、しわ寄せが向かうことがあります。

ここで怖いのは、困っている人ほど、助けを求めにくくなることです。

「親なんだから頑張らないと」

「みんなやっている」

「こんなことで相談したら恥ずかしい」

そう思っているうちに、ますます孤立していく。

そして外からは、その家庭の苦しさが見えない。

私たちは、問題が起きてから、「なぜ誰も気づかなかったのか」と言います。

でも、日常の中では、余裕をなくしている人を見ても、「だらしない」、「もっと頑張ればいい」と片づけてしまうことがあります。

気づけば私も、結果だけを見て、その人がそこまで追い込まれた道のりを、見ようとしていないことがあります。

もちろん、事情があれば何をしても許されるわけではありません。

責任は、責任としてあります。

ただ、責任を問うことと、そこへ至った苦しさを見ることは、両立するはずです。

そこを分けて考えないと、同じことがまた起こるのかもしれません。

仏教では、人間を、強く正しい存在としては見ません。

腹が減れば苛立つ。

眠れなければ余裕を失う。

不安が続けば、目の前の人にまで優しくできなくなる。

そんな私たちです。

だからこそ、「ちゃんとした親になれ」だけでは足りないのでしょう。

弱くなる前に支える。

壊れる前に誰かがつながる。

それでも届かないことはあります。

助けたくても、助けきれないこともあります。

けれど、虐待した人をただ遠くへ追いやって、「あの人たちは特別だ」と思った瞬間、私は少し安心できます。

自分とは違う人間だと思えるからです。

でも本当に、そこまで遠いのでしょうか。

余裕を失ったとき、私の中からどんな顔が出てくるのか。

そのことを思うと、簡単には他人事にできません。