人って、苦しい時ほど、声を上げる力まで失っていくんですよね。

毎月の支払いで精いっぱい。

食料品の値上がりが気になる。

病院へ行くのも少しためらう。

老後のことを考えると不安になる。

けれど、政治の話まで考える余裕はない。

制度を調べても、言葉が難しい。

誰に何を訴えればいいのかも分からない。

選挙があっても、誰が何を変えてくれるのか見えない。

そうして、生活が苦しい人ほど、政治から少しずつ離れていきます。

一方で、暮らしに余裕のある人は、情報を集める時間もある。

人とつながる機会もある。

自分に関係する政策について、意見を届ける方法も知っている。

もちろん、豊かな人が悪いわけではありません。

自分の暮らしを守ろうとするのは、誰にとっても自然なことです。

ただ、声を届けやすい人の声ばかりが届けば、政治は少しずつ、その人たちの暮らしに近づいていきます。

声を出せない人は、困っていないのではありません。

困りすぎて、声を出せないことがある。

そこが、少し怖いところです。

最低賃金が上がらない。

社会保障が縮小される。

年を取っても、働き続けなければ暮らせない。

そうした話を聞くと、「元気なら働けばいい」と思う人もいるでしょう。

実際、働くことが生きがいになる人もいます。

けれど、働きたいことと、働かなければ食べていけないことは、同じではありません。

体がつらい。

家族の介護がある。

雇ってくれる場所がない。

それでも、生活のために働かざるを得ない。

そこでは、働くことが希望ではなく、逃げ場のない義務になることがあります。

人は、自分がまだ動けるうちは、動けない人の苦しみを想像しにくいものです。

努力すればいい。

備えておけばいい。

もっと働けばいい。

そう言いたくなる。

それは時に、自分もいつか弱るかもしれないという不安から、目をそらすためなのかもしれません。

自分は大丈夫。

自分はそちら側には行かない。

そう思えれば、少し安心できます。

けれど、病気になることもある。

仕事を失うこともある。

家族の事情で働けなくなることもある。

老いは、努力だけでは止められません。

格差というと、お金を持っている人と、持っていない人の違いに見えます。

けれど本当は、選べる人と、選べない人の差でもあるのでしょう。

休める人と、休めない人。

病院へ行ける人と、我慢する人。

政治に声を届けられる人と、今日を越えるだけで精いっぱいの人。

その差が広がると、同じ社会に生きていても、見えている景色まで違ってきます。

そして気づけば、私もまた、自分に近い人の声ばかり聞いています。

自分と似た暮らし。

自分と似た考え。

自分と似た不安。

その中にいると、別の場所で立ち止まっている人が、見えにくくなる。

怠けているように見える人が、本当はもう力を使い果たしていることもある。

声を上げない人が、何も望んでいないわけではない。

阿弥陀仏の本願は、自分の力で立ち続けられる人だけに向けられたものではありません。

頑張りたいのに頑張れない人。

助けてほしいのに、声を出せない人。

世の中から置いていかれたように感じる人。

そして、そうした人を簡単に見失ってしまう私も、そのまま見捨てないはたらきです。

誰かの苦しさを、すぐに解決することはできません。

けれど、声が小さいからといって、苦しみまで小さいわけではない。

そのことだけは、忘れずにいたいと思います。