人って、不思議なもので。

安心したいから準備をするのに、準備を始めると、かえって不安になることがあります。

災害に備えて非常食を買う。

老後に備えて貯金をする。

病気が心配で保険を見直す。

どれも大切なことです。

けれど、準備を始めると、今まで見えていなかった危険まで見えてくる。

あれも足りない。

これも足りない。

もしもの時はどうする。

考えれば考えるほど、心は未来へ引っ張られていきます。


国家も、どこか似ています。

食べ物が届かなくなったらどうする。

燃料が止まったらどうする。

重要な資源を握られたらどうする。

技術を失ったらどうする。

そうした不安に備えるため、国は協力し、備蓄し、つながりを強めようとする。

もちろん必要なことです。

現実を見れば、世界は昔ほど単純ではありません。

遠い国で起きた出来事が、数日後には私たちの生活へ届く。

ガソリン代が上がる。

電気代が上がる。

物が不足する。

ニュースの向こうの話だったはずなのに、いつの間にか夕飯の買い物へつながっている。

だから備える。

それ自体は間違いではありません。

ただ、少し立ち止まって考えたくなるのです。

人はいつから備えるのでしょう。

たぶん、失うことが怖くなった時です。

足りなくなるかもしれない。

奪われるかもしれない。

頼れなくなるかもしれない。

その不安が、備えを生みます。

そして、その備えが大きくなると、今度は別の不安が生まれる。

相手は何を考えているのか。

こちらを脅かそうとしているのではないか。

もっと備えなければ。

もっと守らなければ。

もっと強くならなければ。

安心を求めて始まったはずなのに、気づけば不安を中心に世界を見始めている。

そんなことがあります。


これは国だけの話ではありません。

家庭でも起きます。

裏切られたくないから、相手の顔色をうかがう。

傷つきたくないから、本音を隠す。

損をしたくないから、先回りして身構える。

全部、自分を守るためです。

けれど、守ることばかりに意識が向くと、人は少しずつ疲れていく。

本来守りたかったものまで、見えなくなってしまうことがあります。


仏教では、苦しみの根に「執着」があると説かれます。

執着というと、欲張りな心を思い浮かべるかもしれません。

でも、失いたくない心もまた執着です。

大切だからこそ、手放せない。

大切だからこそ、恐ろしくなる。

人間の苦しさは、ここにあるのかもしれません。

平和を守りたい。

暮らしを守りたい。

家族を守りたい。

その願いは尊いものです。

けれど、守ろうとする心の奥に、恐れが混ざり始めると、人は少しずつ余裕を失う。

国家も、社会も、そして私自身も。


だから必要なのは、何も備えないことではないのでしょう。

備えながら、恐れに飲み込まれないこと。

守りながら、敵ばかり探さないこと。

失うかもしれない現実を見ながら、今あるものへの感謝を忘れないこと。

それは案外難しい。

気づけば私も、将来を心配し、老後を心配し、人間関係を心配し、まだ起きてもいないことに心を奪われています。

外の話だと思っていたのに、結局、自分の中にも同じものがある。

備えは必要です。

でも、安心は備蓄できない。

そのことだけは、時々思い出したいのです。

南無阿弥陀仏。