「秘書を信じます」

この言葉だけ聞けば、悪い響きではありません。

部下を信じる。
仲間を守る。
身内を簡単に切り捨てない。

それ自体は、リーダーとして大事な姿勢にも見えます。

でも今回の話で引っかかるのは、そこではないんです。

問題は、「信じること」と「責任を引き受けること」が、いつの間にか混ざっていること。


報道によれば、高市首相陣営をめぐって、他候補者らへの中傷動画作成・拡散疑惑が出ており、週刊文春は秘書と動画作成者との67通のメッセージ記録を報じています。

高市氏は国会などで関与を否定し、「秘書を信じる」と述べています。 

もちろん、疑惑は疑惑です。
現時点で断定はできません。


ただ、ここで問われているのは、刑事ドラマの犯人探しだけではない。

組織の責任者が、「知らなかった」でどこまで済むのか、という話です。

過去のブログでは、高市氏自身が「秘書が勝手にやったこと。私は知りませんでした」とは言いたくない、という趣旨を書いていたと報じられています。

つまり本来は、秘書の行動にも管理責任があるという感覚を持っていたわけです。 

ここに、今回の違和感があります。


昔は「責任を引き受ける」と言っていた。
でも今は「私はわからない」と言う。

人は、自分が外側にいる問題には厳しくなれます。
ところが、自分の足元で起きた問題になると、急に言葉が濁る。


これ、政治家だけの話ではないんですよね。

会社でもあります。

部下がやった。
担当者が判断した。
現場のミスだった。
私は報告を受けていない。

家庭でもあります。

子どもが勝手にした。
相手が誤解した。
自分はそんなつもりじゃなかった。


責任って、近づいてくると急に重くなるんです。

だから人は、少し距離を置きたくなる。

「知らなかった」
「聞いていない」
「信じている」

この言葉で、現実との間に薄い壁を作る。


でも本当は、リーダーに求められるのは、全部を知っていたかどうかだけではない。

知らなかったなら、なぜ知らなかったのか。
知らないまま動ける組織だったのか。
それをどう正すのか。

そこまで含めて責任なんだと思います。


もちろん、人間は完璧ではありません。

全部を管理できない。
部下を疑い続けることもできない。
信じたい人を信じたい。

その気持ちはわかる。

でも、信じることは、調べない理由にはならない。
仲間を守ることは、説明を避ける理由にはならない。

ここが本質です。


仏教的に言えば、正しさもまた執着になります。

「自分は誠実である」
「自分の陣営は正しい」
「自分の秘書は信じられる」

そう思いたい心が強くなるほど、都合の悪いものが見えにくくなる。

これが無明です。

見えていないのではなく、見たくない。

そして見たくないものを見ないままにすると、組織全体が曇っていく。


だから今回の話は、誰か一人を叩いて終わる話ではありません。

権力を持つ人ほど、説明責任が重くなる。
強い言葉を使ってきた人ほど、自分にも同じ基準が返ってくる。

これは、政治だけではなく、私たちの日常にもあることです。

人に言った正論を、自分にも向けられるか。

ここが一番痛い。

誰かの不祥事には厳しく言える。
でも自分の身内の問題になると、急に事情を探し始める。

自分もそうです。

だからこそ、問いはひとつ。

自分が信じたいものを守るために、見なくなっているものはないか。


責任とは、偉そうに謝ることではなく、
見たくない現実を、引き受けて見ることなのかもしれません。


南無阿弥陀仏。