「もっと社交的になりなさい」

子どもの頃、一度は言われたことのある言葉ではないでしょうか。

まるで、人見知りは未完成の状態であり、いつか克服されるべき“仮の性格”であるかのように。

けれど私は、この言葉に、ずっと小さな違和感を抱いてきました。

本当に、人見知りは直すべきものなのでしょうか。

それとも――それは、別のかたちの“理解の仕方”なのでしょうか。

初めて会う人の前で、言葉がすぐに出てこない。

相手の表情を読み、声の調子を感じ取り、

場の空気を確かめてから、ようやく一言を選ぶ。

その沈黙の時間は、外から見れば「ためらい」に見えるかもしれません。

けれど内側では、世界を丁寧に読み取る作業が行われています。

それは恐れているのではありません。

理解しようとしているのです。

軽々しく踏み込まないのは、弱さではなく、敬意です。

言葉を急がないのは、無能ではなく、慎重さです。

人見知りとは、世界に対する、静かな礼儀なのかもしれません。

仏教には、「正念(しょうねん)」という言葉があります。

今、この瞬間を、ありのままに観ること。

焦らず、決めつけず、ただ、そこにあるものを、そのまま受け取ること。

人見知りの人は、まさにこの姿勢を自然に持っています。

相手をすぐに分類しない。

自分をすぐに開示しない。

関係が育つ時間を、待つことができる。

それは、現代の「すぐに繋がること」を求める世界の中では、むしろ希少な力です。

速く打ち解ける関係は、心地よいものです。

けれど、本当に深い関係は、たいてい、静かな時間の中から生まれます。

沈黙を共有し、少しずつ言葉を重ね、

互いの輪郭を、ゆっくりと知っていく。

その過程を経た関係は、簡単には壊れません。

人見知りの人が築く関係が少ないのは、能力が足りないからではありません。

選んでいるからです。

信頼を、数ではなく、深さで測っているからです。

私たちは、ときに、「すぐに話せる自分」になろうと努力します。

それは決して悪いことではありません。

けれど同時に、「すぐに話さない自分」にも、価値があることを忘れてはならないと思うのです。

沈黙は、空白ではありません。

それは、理解が芽生える前の、豊かな土壌です。

言葉が少ない人は、何も持っていないのではなく、まだ渡していないだけなのです。

親鸞聖人は、自らを「愚か者」と呼びました。

それは、自分を卑下するためではありません。

自分が、簡単には真実を掴めない存在であることを知っていたからです。

だからこそ、急がなかった。

だからこそ、見つめ続けた。

人見知りの沈黙も、それに似ています。

すぐに理解したふりをしない。

すぐに繋がったふりをしない。

ただ、そこにいる。

ただ、観ている。

その姿勢の中に、すでに深い智慧が宿っています。

もし、あなたが人見知りなら、

それは直すべき欠点ではありません。

それは、あなたの心が、世界を丁寧に扱っている証です。

どうか、その沈黙を、恥じないでください。

語らない時間の中で、あなたはすでに、多くのものを受け取っています。

そして、いつか言葉が生まれるとき、その一言は、きっと、誰かの心に深く届くでしょう。

沈黙は、敗北ではありません。

それは、真に出会う準備なのです。


南無阿弥陀仏