知らせを見たとき、
しばらく画面を閉じることができませんでした。
LUNA SEAのドラマー、真矢さん。
56歳。
あまりにも若い。
そう思うのと同時に、もう一つ、別の思いが浮かびました。
この人は、最後まで「次の一打」を信じていたのだ、と。
ドラムという楽器は、不思議です。
音は鳴った瞬間に消えます。
ギターのように余韻を引きずるわけでもなく、ピアノのように響きが空間に留まるわけでもない。
叩いた瞬間に、生まれ、そして、すぐに消える。
けれど、その一打があるからこそ、次の音が意味を持つ。
もし最初の音が消えなければ、音楽は前に進めません。
消えることは、終わりではなく、続いていくための条件なのです。
仏教では、これを「無常」と呼びます。
無常とは、儚さのことではありません。
無常とは、流れのことです。
すべてが変わり続けるからこそ、すべてが繋がっていく。
真矢さんの叩いた音も、もう空気の中には残っていません。
けれど、その音を聴いた人の中には、確かに残っています。
ライブで胸を打たれたあの瞬間。
イヤホン越しに心が震えたあの夜。
何度も聴いたあのイントロの鼓動。
それらは、消えていません。
音は消えても、身体は覚えているのです。
お寺でお経を読んでいると、ふと不思議に思うことがあります。
声は、その場で消えます。
残るのは、静けさだけです。
けれど、お参りのあと、
「なんだか心が落ち着きました」と言われることがある。
声は残らない。
しかし、響きは残る。
それは、耳ではなく、心に触れたからなのでしょう。
真矢さんのビートも、同じだったのだと思います。
音としてではなく、
生き方として、誰かの中に残っている。
人は、何を残したかで語られることがあります。
けれど本当は、何に向かっていたか、で決まるのではないでしょうか。
彼は最後まで、ドラムに向かっていました。
次のステージを見ていました。
それは、結果を超えた姿勢です。
仏教では、「行(ぎょう)」という言葉があります。
完成することではなく、歩き続けること。
止まらず、向かい続けること。
その姿そのものが、すでに完成なのです。
人は、いつか必ず、音を止めます。
それは避けられません。
けれど、その人が刻んだリズムは、世界のどこかに残り続けます。
誰かの呼吸の中に。
誰かの記憶の中に。
誰かの勇気の中に。
それは、大きな音ではないかもしれません。
けれど、確かに、支えている。
ドラムがそうであるように。
旋律の後ろで、目立たず、しかし確実に、すべてを前に進めている。
音は消えます。
けれど、響きは消えません。
そしてきっと、真矢さんの刻んだ時間は、これからも、誰かの中で鳴り続けるのでしょう。
私たちがふと立ち止まり、もう一度、前に進もうとするとき。
その足元で、静かに。
南無阿弥陀仏
