「老後の不安は、お金の不安だ」

そう言われ続けてきた社会で、この記事は少しだけ、違う場所を照らしている。

年金13万円。貯金3,500万円。

数字だけ見れば、破綻していない。

けれど床に散らばるカップ酒と、冷え切った宅配弁当の前では、その数字は何の力も持たない。

この父親は、怠けていたわけじゃない。

贅沢をしたかったわけでもない。

ただ、「戻る場所」を一気に失っただけだ。

妻が亡くなった。

仕事が終わった。

頼っていた日常の“段取り”も、“意味”も、同時に消えた。

人はよく

「気合が足りない」

「甘えている」

と言うけれど、気合は、意味がある時にしか湧かない。

「どうせ先は長くないんだ」

この言葉は、諦めというより、自分に向けた免責宣言だと思う。

──もう、頑張らなくていいよ。

──期待されなくていいよ。

──迷惑も、かけなくていいよ。

そう言い聞かせて、なんとか今日を終わらせている。

コメント欄には、いろんな声があった。

「地域活動が救った」

「子どもがもっと早く関わるべきだった」

「これはFPの話じゃない、精神科の領域だ」

どれも間違っていない。

そして、どれも万能ではない。

大切なのは、「正解探し」よりも、

人は“役に立てなくなった”と感じた瞬間から、壊れ始めるという事実だ。

お金は、生活を支える。

でも、「自分がここにいていい理由」は支えてくれない。

配偶者に先立たれた男性が、急に弱くなるのは、男が弱いからじゃない。

人生を“二人用”に最適化しすぎていたからだ。

一方で、独身で「覚悟している」と語る人もいる。

それも一つの生き方だ。

ただ、覚悟は孤独を消してくれる魔法ではない。

結婚してもしなくても、

子どもがいてもいなくても、

最後に問われるのは、たった一つ。

「今日、自分は誰かと“つながっていたか」

それが、挨拶一つでも、ゴミ拾いでも、見守りでもいい。

セルフ・ネグレクトは、だらしなさじゃない。

関係が切れたあとの静かな病気だ。

だから、叱っても意味がない。

説教しても届かない。

必要なのは、「戻れる細い糸」を切らないこと。

大きな役割じゃなくていい。

生きがいなんて、後付けでいい。

「今日は顔を見た」

「声を聞いた」

「頼られた」

それだけで、人はまた少し、身の回りを片付け始める。

老後を支える最後の土台は、貯金額でも、年金でもない。

「まだ、ここに居ていい」と思える感覚だ。

もし、あなたの周りに

「どうせ先は長くない」と口にする人がいたら、正論をぶつける前に、こう言ってみてほしい。


「今日は、顔を見られてよかった」


それだけでいい。

それが、生き直しの、いちばん小さな入口だから。


南無阿弥陀仏