関ケ原めぐり【西軍・島津豊久の墓】
みなさま、こんにちばん和!
和心を詠って伝える伝道師、仁王です(^o^)人(^_^)
今ある私達の平穏な暮らしが、過去に散っていった、
数多くの犠牲の上に成り立っているということを常に忘れず、
その時代を全力で生き抜いた方々に、尊敬と感謝をこめて
手を合わせながら、仁王がめぐる歴史ゆかりの地。
ただ今、関ケ原の陣跡めぐりをお届け中です★
前回は、西軍・島津義弘陣跡でした。
今回は、西軍・島津豊久のお墓です。
島津義弘(しまづ よしひろ)の甥である島津豊久(しまづ とよひさ)は、
義弘をなんとしてでも本国へ帰還させるため、
死を覚悟で戦いに挑みました。
島津の敵中突破。
実はこのアイデアを出したのは、豊久だったとも言われています。
西軍の大敗を目前に、自刃を覚悟した義弘を、
『島津家の今後の事を考えると、
自分よりも、義弘に生きていてもらわなければならない』
と諭し、豊久は死を選んだのだと言います。
甥とはいえ、実の子同様に接していた義弘にとって、
苦渋の選択だった事でしょう。
それでも、豊久の意見を飲んだ義弘は、
なんとしてでも生きて薩摩へ帰る事を決意します。
こうして義弘は、四方八方を敵軍に囲まれた中を、
正々堂々と突破していきます。
そんな義弘を守るため、
豊久は烏頭坂(うとうざか)で、
徳川四天王である井伊直政&本多忠勝らと奮戦の末、
本多隊に討ち取られてしまいます。(※諸説アリ)
またこの時、豊久率いる島津隊の鉄砲によって負傷した井伊直政は、
その傷が原因で翌々年に亡くなっています。
島津豊久のお墓は、
豊久がもたれかかったと言われている木の傍に建てられています。
次回は、そんな豊久と奮戦した徳川四天王の一人、
東軍・本多忠勝陣跡を訪れます。
島津義弘は、猫を戦場に連れて行っていたというエピソードがあります。
なので今回はタマも一緒なのです★
猫は時間帯によって目の色が変わるから、時計代わりにしていたそうです!
なんてカワイイ時計なんだろう(*´∇`*)
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