関ケ原めぐり【東軍・田中吉政陣跡】
みなさま、こんにちばん和!
和心を詠って伝える伝道師、仁王です(^o^)人(^_^)
今ある私達の平穏な暮らしが、過去に散っていった、
数多くの犠牲の上に成り立っているということを常に忘れず、
その時代を全力で生き抜いた方々に、尊敬と感謝をこめて
手を合わせながら、仁王がめぐる歴史ゆかりの地。
ただ今、関ケ原の陣跡めぐりをお届け中です★
前回は、東軍・細川忠興陣跡でした。
今回は、東軍・田中吉政陣跡です。
もともと近江の農家出身とも言われる田中吉政(たなか よしまさ)は、
秀吉からの信頼が厚く、
秀吉から「吉」の一字を授かり「吉政」と名乗ったといいます。
豊臣時代、家康が関東に移封されると、
吉政は秀吉の命で家康の居城であった岡崎城に入ると、近世城郭に整備しました。岡崎城にある田中堀は、この時のものだそうです。
また吉政は、土木・治水や農業などに深い感心があり、
秀吉から与えられた近江八幡の町づくりも積極的に行いました。
その時に吉政が整備した八幡堀は、いまでも健在だそうです。
現在の近江八幡市は、
吉政を郷土の先覚者として讃えているのだそうです。
さて、そんな秀吉からの信の厚かった吉政も、
関ヶ原合戦では家康率いる東軍に属しました。
本戦では、笹尾山から討って出て来る石田隊と激突します。
吉政が大手柄をあげたのは、本戦よりも合戦後。
ご存知の方も多いと思いますが、
逃亡した三成を捕縛したのが吉政でした。
三成と吉政は同じ近江の出身だった事もあり、
地の利のあった吉政は、
率先して三成の捜索を家康に申し出たそうです。
9月21日。伊吹山の山中の岩窟で三成を確認、捕縛すると吉政は、
疲弊しきった三成に、お腹に優しいニラのお粥を進めるなど、
手厚くもてなしたそうです。
そのお礼にと三成は、秀吉から授かったという脇差を吉政に渡し、
「他のヤツに捕縛されるよりは、お前で良かった」とこぼしたといいます。
三成捕縛という大手柄をあげた吉政は、
戦後筑後一国柳川を与えられ、たった一代で国持大名となりました。
町づくりに長けていた吉政が整備した柳川の城下町は、
現在の柳川の基盤となっているそうですよ。
さて次回は、西軍・蒲生郷舎陣跡です!
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