【2日目その1・広島】れっつ★百万一心★安芸旅行! | 仁王(旧)Official Blog 仁王軍本陣

【2日目その1・広島】れっつ★百万一心★安芸旅行!


皆様こんにちばん

ご存知、戦国大好きです(^0^)人(^ー^)
好きになったら聖地巡礼しちゃいます、
どうもです(^0^)人(^ー^)

さてさて、
戦国の知将・毛利元就公ゆかりの地旅日記、
題して「れっつ★百万一心★安芸旅行!」

前回は一日目の広島城~原爆ドーム、
についてご紹介させていただきました!
元就さんをめぐるというよりは、
この日は広島市内観光寄りでしたが(・∀・)



※バックナンバーはこちら☆

・【ぷろろーぐ】れっつ★百万一心★安芸旅行!

・【1日目・広島】れっつ★百万一心★安芸旅行!



広島市は、
今でこそ観光スポットとしても中心地としても名高い場所ではありますが、
元就さんの頃の中心地は、ここより少し離れたところにあるのです…

…というわけで「れっつ★百万一心★安芸旅行!」
今回は二日目でございます!!!
しかも、二日目のその1、というカタチでご紹介させていただきます♪

だって一回じゃ書ききれないから!(*´∇`*)

広島は広島でも、かな~り毛利色の濃い聖地に行って参りましたよぉお!!!

興味がある人は勿論!!
そうじゃない人も是非☆楽しんでいただけたらと思います♪

それでは一緒に参りましょう!!「れっつ★百万一心!」
百万一心(ひゃくまんいっしん)とは
…毛利元就が築城の際、本来の慣しでは人柱を埋めるところ、
無駄な犠牲を払う事を避け、かわりに埋めた石に彫られた言葉として伝わっています。
それは「一日一力一心」とも読め、みんなが心を一つにする事の大切さを意味していま
す。



はい、ちゅーワケで!(・∀・)/


ここは、広島県安芸高田市吉田町。

吉田マンホール2  吉田マンホール1
ここには、南北朝時代より毛利氏が代々居城としてきた
山城・吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)があります。


郡山城だよ

吉田郡山城は、
元就さんが27歳で家督を相続してから、75歳で亡くなられるまで、
その一生涯を過ごした場所です。


郡山城6

まさに、元就ファン必見の場所でございます☆

度々、霧につつまれた郡山城といった描写がありますが、
実際この日もこの地に踏み入れたとたん、
快晴だというのに霧が発生していました!


山霧4  山霧2
※永井路子さんの小説『山霧(毛利元就の妻)』は、
元就ファンの間でも有名ですね☆
山霧3  山霧1

きっと地形的に、山霧が発生しやすいのでしょうが、
物語で見た事のある情景を目の当たりにすると、
やっぱテンションあがっちゃいますよね☆

はい、そんなワケで!!

いよいよ吉田郡山城へ!!!!
  ε==(っ≧∀≦)<ぃやっふー!!


郡山城4
…と、その前に!

郡山城1
お城歩きとは、時には立派な山登りになりかねません(・∀・)

郡山城2
まずは、安芸高田市歴史民俗博物館(HP) にて旅の準備を!!
(安芸高田市歴史民俗博物館さんのツイッターID:akitakatahaku)

郡山城3

…と、称しまして、記念スタンプと、
それから地図をゲットしましょう☆(お土産も忘れずにね!)

 
郡山城地図5
と、なにやら『郡山城ガイドマップ』なるものが…

なり地図2  
郡山城地図4
こ、これは…!

郡山城地図3
なななんと!
現地でしか手に入らない貴重なブツを発見!!
じゃーーーーーん☆
郡山城地図1
これはビックリ!
現地にて設置されているお城の地図に、
戦国BASARA毛利元就が!笑(・∀・)


郡山城2
さすがですw
はい!そんなワケで、
思わぬブツをゲットしまして、いざやぁあ!!!

郡山城5
まずはここ!

少年自然の家

『安芸高田少年自然の家』!!!



って、あれ??


全然毛利じゃないじゃん( ° Д ° )


と、思うかもしれません、が!!!



実はここ『安芸高田少年自然の家』、
元就さんのお屋敷跡地だと言われているのです!


毛利屋敷2
はじめ、この旅行計画を企てている時(なんか悪そうw笑)、
この施設に宿泊するのもいいなぁ(-^∀^-)と考えたりもしました♪
(ウン!重症だね!)

毛利屋敷1
はい、そんなワケで!

毛利元就公像2

こちらが敷地内にある毛利元就公像です♪

毛利元就公像1


も、元就様が、石化なさっている…!!誰か金の針を!!(゚д゚)
金の針…ファイナルファンタジーのアイテム。石化した仲間を元に戻せるぞ!


さてさて、日が暮れては登山も下山もできません!
もっと浸っていたいけど、どんどん参りましょう☆

続きましては…


毛利元就火葬場跡   日頼洞春2
元就さんを火葬したと伝わる場所…だそうです。

日頼洞春1

「日頼洞春(にちらいとうしゅん)
一生涯、太陽を信仰していた元就さんらしい法号です。

5歳で母を、10歳で父を亡くした元就さんは、
亡き父の側室であった女性、杉大方に育てられました。
まだ若い女性(元就さんとの年齢差は15歳、母親代わりとしては若い!)にもかかわらず、
他へ嫁ぐ事も無く、一生涯元就さんを支え続けたこの女性を、
元就さんは心より慕っていたそうです。
元就さん太陽を信仰するようになったのも、
杉大方による影響だと言われています。
彼女に導かれ、旅の僧の話を聞いて以来、
元就さん毎朝太陽に向かって十回念仏を唱えるようになったそうです。


※山口県下関にある『日頼寺』は、
元就さんの四男・穂井田元清(ほいだもときよ)により、
元就さんの法号『日頼洞春』にちなんで改称されたそうです!い、行きたい!! (・ω・)

日頼洞春3
さてさてどんどん参ります!


郡山城郭跡2
おおっと!なにやら発掘現場?!
らしきところにやってきたー!(・∀・)

郡山城郭跡1
ふむふむ、どうやらここ近年発掘された郭跡のようです。
色々掘ったらまだまだなんか出てきそう…(ホ、ホスィ…!)

郡山城郭跡4  郡山城郭跡3
さて続きましては、
元就さんの嫡男・毛利隆元(たかもと)さんのお墓です。


毛利隆元御墓所2
あまり歴史上では名を馳せていない隆元さんですが、
実は個人的に、かなり好きなんです!(=´ ∀ `=)


毛利隆元御墓所1
なのでここは一発!語らせていただきます!!(・∀・)

毛利隆元御墓所3

まず、この毛利隆元という人物、とにかく、とーーっても優しく、
親孝行な人であったと伝えられています。
その孝行ぶりは後世、
吉田松陰「仁孝に篤き良将であった」
評価されるほどだったそうです!

少年時代を人質として山口の大内家で過ごした隆元は、
雅な大内家の影響を受けてか、
武術よりも能や芸といった芸事を好んでいたそうです。

(※人質とはいえ、容姿も良かった事から、大内家でも優遇されていたそうです)

しかしそれは、戦国の世を生きる者として不要であると、
父・元就から再三言われていたそうです。

元就さんの言葉で
『謀り事多きは勝ち、少きは負ける』というものが残っています。

 「戦国乱世において、能や芸事といった遊びは必要無くなった。
    今必要なのは、武略、計略、調略、これだけだ。」


という事らしいです…。
好きな事一つすることが許されない、
今日、生きるか死ぬかの乱世の様子が、
なまなましく伝わってきますよね(>_<)

その後隆元は、父・元就の突然の隠居表明を受け家督を継ぐも、
実権はかわらず父が握り、
長男であるにも関わらず、
武勇では次男・吉川元春にはかなわないし、
知略では三男・小早川隆景に劣り、
頑張っても頑張っても、
優秀な弟達の活躍ぶりと、
偉大すぎる父の影にかき消されてしまう事が多かったため、
自分の器量に自信が無く、しばしば思い悩む事もあったそうです。

※吉川元春(きっかわもとはる)
元就さんの次男。養子縁組のため吉川家に入ったので姓を吉川と称します。

小早川隆景(こばやかわたかかげ)
元就さんの三男。養子縁組のため小早川家に入ったので姓を小早川と称します。

のちにこの、吉川家&小早川家は
『毛利両川(もうりりょうせん)』と呼ばれるようになります。


この家督相続の際、元就が隠居表明をすると隆元
「自分も父上と一緒に隠居したいです!」
と言った、という話が残っています。

この話、一般的に考えると
「なんだ、長男なのに情けない」
とか思われるかもしれませんが、
この頼り無い感じが、なんとも愛らしいと思うんです(=´ ∀ `=)

誰にだって、向き不向きがあって、でも時代や境遇には逆らえなくて。

そんな中、自分には向いていないとわかっていながらもその重役を担い、

それでも人の役に立とうとして、

それでも心から慕う偉大な父の役に立とうと頑張って。

そういう人って、人一倍悩んで、人一倍努力をするんですよね。

それでも人には心配をかけまいとする、

そんなところが毛利隆元という人の魅力なんだと思います。


毛利隆元御墓所4

「三本の矢」でも有名なこの毛利三兄弟を、
 世の中ではしばしばこうあらわします。


武勇の次男・元春知略の三男・隆景。そして、(人柄)の長男・隆元。』


優しいんです!(≧∀≦)
隆元さんは、とにかく優しくて、親孝行で、
根っからの『いいひと』だったんですよ!!

ただ、産まれた時代が、環境が、彼を優遇しなかった。

悲しい事に隆元さんは、父・元就と別行動中に立ち寄った、
毛利氏傘下の国人・和智誠春(わちまさはる)に食事をもてなされた晩に、
41歳の若さで突然急死してしまいます。

死因は食中毒とも、毒殺ともされ、未だ定かではありません。


毛利隆元御墓所5

この事件は、正室(妙玖)に先立たれていた元就さんにとって、
相当ショッキングな出来事だったようで、
しばらく立ち直れずに、事あるごとに
「はやく隆元のところへ行きたい…」とぼやいていたそうです。

また、隆元さん亡き後、毛利の外交が不利になったという事は、
彼がその人柄と政治力によって、
陰ながらも毛利を支えていたという事実を証明する事となりました。


毛利隆元御墓所6

偉大過ぎる父優秀な弟達の間で、常に苦悩をし続け、

それでも必死にその重役を背負いながらも、父を慕い、

自分の器量に見合わぬ大事をこなそうと、

もがき、あがき、

本当は芸事が好きな自分にフタをしながらも懸命に生きて、生きて、

最期が毒殺ではあまりにも悲しい一生です。


もしも今の時代に産まれていたら、温かい作品で世の中を暖めてくれる、
心優しい芸術家になっていたかもしれませんね。


この日、安芸高田市歴史民俗博物館
「毛利隆元没後450年記念事業特別展~毛利隆元~」が開催されていました。
(※時間の関係で入場できませんでしたが…、無念である!!)

安芸高田市歴史民俗博物館

毛利隆元
ちなみに実はこれ、自画像なんだそうです。

武術よりも芸術が好きだった隆元さんらしいですよね(=´ ∀ `=)


はい!とゆーワケで!!だいっっっぶ長くなりましたが、
毛利隆元という人の魅力、
伝わりましたでしょうか? (・∀・)



『手柄より人柄』。

毛利元就の嫡男・毛利隆元とは、

多くの野心家達が、
我も我もと天下を掌握せんと欲望渦巻く下克上の時代に、

仁の心
を持って、縁の下で陰ながら生涯毛利家を支え続けた、

それはそれは立派な方だったのではないでしょうか。


いつの時代も、
義の心仁の心を大切にする人よりも、
目に見える手柄を立てたり、
周りを押しのけてでも
一人のし上がってゆくような野心家ばかりが名を残し、
世間から高評価されています。

それもそのはず、
前者は後者に道を譲っているんですから。


けど、世間に高く評価される事が
必ずしも誇らしい事というわけではなくて、
それこそ大衆からは認められなくても、
世間の評価を威ともせず、
心から慕う人が少なからずいる事の方が、

もしかしたら、ずっと誇らしい事だったりするのかもしれません。


はい、というワケで、お次は…!!といきたいところですが、
思った以上に語り出したらキリがなかったので、旅日記は次回へ続きます☆
(・∀・)えへ☆



次回の「れっつ★百万一心★安芸旅行!」
毛利一色
でぃーぷな旅になっちゃいますよ♪

それでは次回も一緒に「れっつ★百万一心★」

お楽しみに☆


続きはこちら
【2日目その2・広島】れっつ★百万一心★安芸旅行!







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