中国の新型コロナ緩和政策後、上海では一気にコロナが蔓延しており、友人知人の

間でも感染した、という話は珍しくない。

 

約半年、このブログを放置せざるを得なかったが、実は、2022年夏、旦那さんの

帰任に伴い、家族揃って本帰国した。

多くの上海駐在者やそのご家族が上海を離れる際、涙したという話を聞いていたが、

18年半と長きにわたり暮らしたにもかかわらず、全く涙は出なかった。

出国直前まで残業続きで業務を引継ぎ、国際引っ越しの手配、息子の転校手続きなど

による睡眠不足が続いていたせいもあるが、家族の誰もが”一時帰国”のような錯覚に

陥っていたからだろう。

 

ゼロコロナ政策による上海ロックダウンやマンションの封鎖が続き、その合間を縫っ

て出国し、ようやく日本の地を踏んだ時、”安堵”の気持ちで一杯だった。

 

しかし、そこから怒涛のような日々が始まった。

初めて暮らす日本の地方都市。

住居を探し、生活の基盤を築く。

上海生まれ&育ちの息子にとっては、初の日本生活。

「ボクは、”帰国子女”ではなく、”渡来人”だね。」と言った息子にとって、地方の

公立中学校への転入は、ハードルが高かったようだ。

噂に聞くような帰国子女へのいじめはなく、周囲は、好意的に受け入れてくれたが、

中3後半という中途半端な時期の転入生では、ポジショニングが、難しい。

日本語には不自由しないものの15歳とはいえ、経験して来たことがあまりにかけ

離れており、共通の話題を見つけるのは、息子にとって容易ではなかった。

当初、「日本の同級生は、日本語しか話さなくてつまらない・・・」と言ったかと

思うと「上海へ帰りたい!」と泣きじゃくることも多かった。

 

息子が日本の暮らしに馴染めるよう”よき伴走者”となろうと決め、本帰国したもの

の塞ぎ込んでいるのを目の当たりにするとこちらの心まで折れそうにもなった。

ここまで海外生活の長い日本人の子どもを連れ、本帰国した前例を知らず、参考に

なりそうな道標もなく、想定以上に暗い暗いトンネルを親子で手探りで進んだのが、

2022年秋以降の日々だ。

 

この地方都市で出会った複数の人々が、思いがけず手を差し伸べて下さり、息子は、

今また陽の当たる道を歩み始めた。

息子にとって上海は、かけがえのない故郷。

そして、いつかまたこの街もかけがえのない場所になるだろう。

息子が、8年4ヶ月お世話になった上海日本人学校浦東校。

新型コロナによるロックダウンや登校制限により中学生活は、約半分の日数しか

登校が許可されなかったが、大勢の友達や先生方と出会えた大切な場所だ。

 

高校受験のため、間もなく本帰国予定の友達が、コロナ陰性証明を取得し、無事に

出国出来るよう願っている。

 

* おまけ *

闊歩していた南京東路。

長く暮らしても見飽きることがなかった外灘の夜景。

鄧小平が書いた赤文字”南浦大橋”が際立つ白い大橋は、上海の東(浦東)と西

(浦西)を繋ぐお気に入りの橋。

砂利運搬船が行き交う茶色い黄浦江(川名)を臨む場所で10数年働いていたのは、

もう随分昔のような気がするが、ゴールまで完走したからそう思うのだろう。

 

「落ち着いたら、上海を再訪したい。」と家族で話している。

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”上海で初めて暮らす方のお役に立てれば”と2009年から細々と続けて来たこの

ブログは、当初の役目を終えることとなりました。

ご訪問いただいた読者の皆さま、長きにわたり、ありがとうございました。

2023年は、心穏やかな年となるよう願いつつ・・・。