▼そもそも目を開けた意識が無くても人は目を開けて物を見ていて、耳を澄ました意識が無くても耳は音を捕えていて。呼吸をしようとは考えていなくても、呼吸をしている。
誰だってそう。
無意識に身体は動いていて、無意識に人は生きる為の何かをしている。

逆に意識的な事もある。
ご飯を食べようと思って食べる。寝ようと思って寝る。歩こうと思って歩く。意識して何かを考えれば、それに応じて肉体が反応を示す。

けれど、無意識的な事も、意識的な事も。
生きているからこそ出来る。

生きている、だからこそ。
そこにその人がいる。

当たり前にしている全ては、そもそも生きている人間でなければ当たり前にはならない。
生きている。

私は、生きている。





▼他人とは、自分でもあるのではないかと思う。

母親と言う存在から生まれ、家族と言う環境の中に生き、友人や先輩、先生、段々と広がる世界の中で、友情や愛情を知っていく。多種多様、様々な感情を抱き、時には苦しく涙を溢し、時には幸せに感謝をする。
屋根の下でご飯を食べ、布団で眠る。学校で知識を学ぶ。運動で肉体を鍛える。仕事でお金の価値を知る。人付き合いとは何か、自己とは何か。色々な事を経験し、色々な事を感じとる。
そしていつか、最後の時を迎える。

環境が違った。
意識がこの肉体に宿った。
だから自分は『自分』であり、その人は『他人』となる。

同じ世界に生まれて、同じ物を食べてきて、同じように生活してきた。
経過と終わりが違うだけ。
そこにいる人は『他人』だけど、『自分』だったかもしれない。
全員が自分。
全員がわたし。
同じ個体。同じ、命。


もしかしたら、『他人』なんてものは、あって無いのではないだろうか。
だとしたら私は、先に潰えた『自分』がやる筈だった事をやりたい。背負うのではなく、嘆き悲しむのではなく、自分が自分として悔いの無いよう生きていきたい。
見据えた未来や望んだ夢は違うけど、『自分』はきっと、やり遂げる事を望むと思うから。



それが、弔いになると信じている。





▼『自分』がやりたかった事を、生きてる『自分』にやってほしい。
全てを終えた後にやってもらいたいと思った事を、生きてる『自分』にやってほしい。

ずっと嘆き悲しまれたら、私は怒る。
生きてる『自分』には、笑っていてほしい。
精一杯、友達と遊んで、恋をして、結婚して、夢を追って、働いて。いっぱい涙を溢して、いっぱい怒って、いっぱい楽しんで、いっぱい笑って。
何だっていいから精一杯、生きてほしい。

そして最後、言ってくれたら嬉しい。

『自分はやってやったぞ』
って、笑って。

私はそうしてやりたい。

私も、そうしてほしいと思っている。





▼『楽しい』ってよく使う。
充実を帯びた経験を積む、それが楽しいって意味だと思う。

『遊ぶ』ってよく言う。
知っていく事、体験していく事、引き出しを広げていく事に繋がる。それが遊ぶって意味だと思う。


ねえ、きみ。

私は『楽しむ』よ。
私は『遊ぶ』よ。

悲しいも辛いも苦しいも
幸せも嬉しいも楽しいも

全部引っくるめた『楽しい』を、私は見つけていく。

それで、最後に言うから。

私はやってやったぞ、って。





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