憎しみは、それを抱いた人間の上に帰ってくる。
ルードウィヒ・ヴァン・ベートーベン
「ソラぁ、いるか?」
ドアを開けて入ってきたのは、翠玉色の髪に長い耳を持った、端正な目鼻立ちの青年だった。
「なんだ、隊長」
呼ばれて返事をしたのは、蒼いショートヘアに碧い瞳、ファッションモデルのようなオーラさえ漂わせる女性だった。
あらかじめ断っておくが、ここはTV局の控え室ではない。恐らくこんな美男美女がいるのに似つかわしくない場所である。
「おぉいたいた、なんか渉外のやつが呼んで…ってわっはぁ!!?」
部屋に三歩入った青年は、面白いように間の抜けた格好で飛び上がった。部屋にいた彼女は、上半身が完全に裸のままだだった。
青年はくるりと向きを変える。
「おっお前なぁ!着替えてるならそう言え!」
「あ、すまない、紅茶をこぼしてしまって…」
「そういう問題じゃねー!ったく…マジで羞恥心が欠けちまってるなぁ」
青年の背後でもぞもぞと新しいTシャツに袖を通した少女(と呼ぶにはあまりにも魅惑的過ぎるのだが、一応未成年なのでこう表記する)が、青年に聞く。
「なにかあったのか?」
「ん?あぁそうだった。えーと、渉外部のやつが探してたぞ。なんかっその、電話があったとか…あ、お前また携帯置いてっただろ?緊急招集があったらどうすんだ?早く渉外に行ってやれ」
「了解」
少女はぱたぱたと部屋を出た。青年は勤めて平静を装ったが、一瞬見えた少女の肢体が目に焼きついて離れなかった。
美しすぎる。白粉を吹いたような肌も、滑らかな腰のラインも、大きさも形も奇跡と呼ぶに相応しい胸も…。
「…いかん」
青年はややかがんだ姿勢で部屋を後にした。
少女の名はソラ。歳は18歳。職業は傭兵である。
彼女の父カイは、世界中戦場を渡り歩き、星の数ほどの武功を上げた歴戦の猛者。弟は手で撃つ火器なら何でも扱える天才ガンマンという、まさにサラブレッドだ。
彼女らが勤める民間軍事企業(PMC)AEGISは、業界では後発ながら驚くほどのスピードで急成長した企業である。
実戦部隊の派遣から火器兵器車輌の売買。ひいては訓練ノウハウの提供から非公式任務の請負まで、戦争に関するあらゆる物を扱う姿勢が、世界で評判を得ていた。
「すみません…」
渉外部のオフィスに着いたソラは、顔見知りのOLに声をかける。
「ん?あ、ソラちゃーん、ひさしぶりー♪相変わらずカワイーねっ」
「ど、どうも…。えっと、私に電話があったって…」
「あぁそうそう。10分くらい前だったかな。って言っても正確にはカイさんになんだけど」
「父さんに?」
「うん。なんか警察の人が話があるから連絡したいって。でも今カイさん行方不明でしょう?」
「一応自主トレなんですけど…」
「連絡取れないのは一緒だよ。だからそう言ったんだけど、至急連絡をとりたいから関係者を紹介してくれないかって言うの。直接取り次ぐのは禁止されてるけど、折り返し連絡するって言っといたわ。で、これ連絡先」
そういってOLは、ソラに小さなメモを渡した。
「どうも…?これ、病院じゃないですか?」
「うん。そこに来てほしいみたいだよ?」
妙な話だと思ったが、先方は急いでいるようだ。しかも行き先が病院とあってはただ事ではあるまい。
「わかった。行ってみる」
ソラはOLに礼を言って、部屋を出た。
「我々も困ってるんですよ。一向に何も話そうとしなくて…」
病院についたソラを迎えた中年の刑事は、カイの娘の傭兵がくると聞いて些か緊張していたが、一目ソラに会って驚いた。伝説の傭兵の娘という肩書きも、新進PMCのエリートという肩書きからもかけ離れた、あまりにも可愛らしい少女が現れたからだ。
刑事はソラを病室へ案内する道すがら、状況を説明した。
「巡回中の警官が、道で倒れているのを見つけてここに運んだんですが、医者の話だと栄養失調だそうです。恐らく三日は水以外摂取していないだろうと。食事と点滴を与えたので、命に別状はないそうですが…」
「なぜ父に連絡を?」
「なんでもここに運ばれる間、ずっとカイさんの名前を呟いていたそうです。うわ言とはいえ、あのカイさんの名前を出したので、警官連中は驚いたそうですよ」
AEGISは警察や治安組織への訓練も請け負うことがあり、カイの名は警察にも知れ渡っていた。
「父さんの知り合い…?」
「さぁ、とにかく会って話してみてください。こちらです」
刑事がドアをノックして開けた。少し広めの個室のベッドに、小さな少女が座っていた。
肌は小麦色。子供にしてははっきりした顔立ち。その顔は疲労の色をうかがわせていた。
ソラは少女に歩み寄る。華奢な体だがしなやかな筋肉を持っている。きっと田舎育ちの子だとソラは見受けた。
「こ、こんにちは?」
予想以上に幼い相手に、ソラはどう接していいか戸惑った。ただでさえ社交性に及第点がもらえない彼女である。
ソラの顔をじっと見たまま、少女は黙っていた。
「あの、私はソラ。カイの娘…だ」
その言葉に、少女の顔が変わった。
「カイ…」
「そう。あの、父さんは今いなくて…代わりに私が来たんだ。えっと…よ、よかったらお話聞かせてもらえる…かな?」
歳は弟に近いようだし、弟に話すように接すればいいはずだとソラは考えた。しかし作為的に身内に接するようにしろといわれるとかえって難しい。ソラは余計どぎまぎしてしまった。
すると、少女は布団の中に隠すようにしていた袋を取り出した。麻紐で作った丈夫そうな袋だ。
「カイさんに、これで来てほしいの!島、たすけてほしいの!」
沈黙を守っていた少女が、唐突に叫ぶように喋りだした。豆鉄砲を食らったソラ。しかし話が見えてこない。
「お、落ち着いて。順番に話して。あなたの名前は?」
「シル。ウムギ島のシル!もうすぐ9さい!」
「ウムギ島って…一人で来たのか?」
「うん!大人たちは怪物が怖いからって、船を出そうともしないの。だからアタシが来たの」
やはり話が見えてこないが、少女の様子を見る限り、かなり逼迫した状況であることはわかった。
ウムギ島は、この街から飛行機と船で丸一日はかかる南海の孤島だ。その距離をこの子は一人できたという。
単独長距離行軍のつらさを知っているソラには、にわかに信じられない話だった。
「それで…島で、何かあったのか?」
「怪物が出たの!おっきぃサメみたいなの!港や船をめちゃくちゃにしちゃったの!」
ソラは思わず、後ろで壁に寄りかかっていた刑事と目を合わせた。二人とも少女の話からただならぬ事態を察したようだ。
この世界では怪物騒動も決して少なくはない。大規模地震より少し発生機会が多い程度の事件である。