数日後、ロスフェラー卿の寝室のドアが叩かれた。
「…入りなさい」
か細い声で主が答え、ドアが開き、リリィが部屋に入る。
「ただいま戻りました…」
宮殿のような部屋のカーテンは閉め切られ、中央に鎮座する船のようなベッドには、毛糸人形のような老人が横たわっていた。
顔は皺に覆われ、髪は白くやせ細り、さりとてその眼光は衰えず、世界の頂に立つ男の生命力を湛えている。
傍らにいた医者が半歩下がり、リリィにお辞儀をした。
「おぉ、戻ったかリリィ…心配したよ?」
「申し訳ありませんでした。ご心配をおかけしまして…」
「いいんだよ。無事で何よりだ。ロジャーも不穏には感じていたが、なくすと惜しいものだね。彼らは気の毒だったが…」
老人…ロスフェラー卿は自分の右手を眺める。
「あの調査団を私に紹介したのはロジャーだった。こんなに老いても、夢というやつは捨てられん。自ら追う事は叶わなくとも、手助けならと資金を出したが…こんな事になるとはな…。お前まで危険な目にあわせてしまうとは……。もう、年相応に大人しくしろという宣託なのかも知れんな……」
一言話すごとに弱っていくようだった。
と、リリィは部屋の隅で埃をかぶっていた車椅子を引っ張り出し、ベッドの横につけた。
「旦那様、来て頂きたいところがございます」
「なに?」
医者が飛び上がるように止めた。
「おやめくださいリリィ様!卿はとてもそんな容態では…」
「あなたがここに来てから、旦那様の容態が快方に向かったことがあるの!?今日くらいアタシの言う通りにさせなさい!」
噛み付くように言い返され、医者は後ずさった。
リリィはロスフェラー卿を車椅子に乗せ、長い廊下を歩いた。
「どこへ行くんだね?」
「すぐそこです」
「そう願うよ。この歳になって遠出は酷だ。あぁ、こんな城の様な屋敷に住んでいながら、寝室から出ることも不自由するとは情けない…」
ロスフェラー卿は自嘲するように言う。やがてリリィはある扉の前に着いた。
「ここです」
「ここって…この向こうは庭じゃあないか。よしておくれ、庭師に暇を出してから荒れ放題らしいじゃないか。気が滅入るだけだよリリィ」
「つべこべおっしゃらず、ご覧になって下さいましっ」
リリィは突き飛ばすように扉を開けた。外の光に一瞬目がくらんだロスフェラー卿は、やがて目の前に見える光景に息を呑んだ。
そこは花園だった。淡く優しく美しい色の花たちが、青い空に泳ぐように、広い庭に所狭しと咲き乱れていた。しかもどれも見たことのない花ばかりだった。
その色はまるで自ら光を放っているかの如く眩く、その甘い香りは鼻を通って体の芯まで駆け抜けていくようだった。
ロスフェラー卿は驚きと感動の余り、声も出せずにいた。
「いかがですか旦那様?」
「これは…一体どういう……?」
いたずらが成功したような顔で、リリィがタネをあかす。
「ケマット山に咲く珍しい高山植物や、麓の町の花屋で売っていた花を取り寄せましたの。庭の手入れをする時間はなかったんですけど、こうして並べるだけでも見違えたでしょう?」
「見違えたなんてものじゃない、別世界にいるようだよ…!」
両手を広げ、この場の空気を逃がすまいとするような卿のしぐさに、リリィは一層手ごたえを感じていた。
リリィは車椅子を庭の中ほどに進めた。そこにはテーブルと椅子が置かれていた。テーブルの上にはティーセットと籐のバスケットが置かれている。
リリィは車椅子をテーブルに着け、ティーセットで手際よく紅茶を煎れた。
「シャイーハでアタシを助けてくれた傭兵さんの同僚さんが、紅茶がご趣味なんですって。その方にお花に合う紅茶を頼んだら、これを下さいましたの」
そういってリリィが差し出したミルクティーは、卿が手に持つ前から分かるほど芳しく、それでいて花の香りを邪魔しない軽やかな香りであった。
「あとこれも下さったの」
リリィが開けたバスケットの中には、山ほどのレーズンロールが入っていた。
卿はレーズンロールをちぎって口にし、ミルクティーを一口すする。スポンジのようなパンがミルクティーをじわっと含み、レーズンの甘みが紅茶の香りに花を添えるようだ。
「どう?旦那様」
「あぁ……こんなにうまいものが、この世にはあったのだな……」
目を閉じて、ゆったりと香りに身を任せるように、卿はつぶやいた。
「そしてこんなにも美しい花が、この世にはあったのだな…」
「えぇ、お忘れでしたでしょう?長らく部屋にこもりきりで…」
ソラの仮説。それはウェドリムが極端に繁殖力が低く、日当たりと風通しに極端に弱いカビだという事だ。
それゆえ間近で大量に吸ったロジャーのみが死に、自分たちは助かった。少年王も多量に吸わないことで生きながらえたに違いないと。
そう、特効薬とはほかでもない、日当たりがよく風通しのいい場所のことなのだ。
ロスフェラー卿はきっと気持ちを病んでいると察したソラとリリィは、早速一計を案じ、花を買い集めたのである。
ロスフェラー卿はもう一口、レーズンロールをかじり、ミルクティーを飲んだ。
「うん…うまい。とてもうまいよリリィ。よい友を見つけたようだね?ぜひ礼が言いたい。よかったら、今度連れてきておくれ」
「えぇ、是非」
「それとねリリィ」
「なんです?」
「ごちそうさま…ありがとう」
卿は、今まで見せたことがない優しい顔で微笑んだ。それを見たリリィは大粒の涙を流し、卿に抱きついた。