さて、「ナンバー7」を一旦白紙に戻してしまった手塚さんですが、「ナンバー7」という

タイトルだけ残して全く新たな作品を構想しなおしました。スパイものです。

ヒントにしたのは7(セブン)繋がりの007です。
007。最近では英語風の「ダブルオーセブン」という読み方の方が一般的なのかも

知れませんが当時は「ゼロゼロセブン」ですね。ご存じジェームズ・ボンドです。

イアン・フレミングの小説を原作とする映画「007」シリーズは、ショーン・コネリー主演の
「007は殺しの番号」が1962年に製作されると、世界的な大ヒットとなり、

世界中で「スパイ・ブーム」を巻き起こしていました。

まさに当時は日本でも大ブームの渦中です。3年後の1967(昭和42)年には
日本を舞台とし、全面日本ロケを敢行した「007は二度死ぬ」が製作され、

日本でのブームの頂点となりました。
丹波哲郎さんがホスト役となり、若林映子さんと浜美枝さんがボンド・ガールとなり、

トヨタ2000GTがボンド・カーとなった作品ですね。

で、この時手塚さんがスパイに変わった主人公に「大島七郎」~「宮本武蔵」に

代わって与えた名が「星光一」でした。「W3(ワンダースリー)」のメインである

星真一少年の名は手塚さんのご友人でもあるSF作家の星新一さんの名から

貰っているという趣旨のことをどこかで手塚さんがおっしゃっているのを
見た気がしますが、星さんと同音の「ほししんいち」より「星光一」の方が

先だったということになりますね。

なにぶんちゃんと作品になっていないキャラクターなので良くは憶えていないのですが、

この「ナンバー7」版の星光一は、「W3(ワンダースリー)」版とは全く違う、

もっと手塚さんらしい、ロックとかケン一少年とかに近い容姿のキャラクターだったように

憶えています。
そしてこの星光一の肩にはこれはもう手塚さんの真骨頂とも言うべき

可愛らしいキャラクターが載っていました。
その名は「ボッコ」。「W3(ワンダースリー)」のヒロイン兼マスコット格(?)の

ワンダースリー隊長、ウサギのボッコ少佐と同じ名ですが、こちらはリスでした。

名前はやはり星新一さんの代表作の「ボッコちゃん」に由来しているのでしょう。

ボッコは光一の肩で敵の攻撃を防いだり、光一が負った傷を癒したりします。

頼れる相棒です。
マスコット的相棒を伴ったヒーローというのはこの後一般化していきますが

これはかなり早い時期に属するアイデアでしょう。

また、スパイものといえばハードボイルドな雰囲気の中で銃器や秘密兵器などの

メカが活躍するのが一般的ですから、スパイものの世界に手塚的なキャラクターを

持ち込んだ意欲作であるとも言えるのかもしれません。

しかし、手塚さんはこの作品構想も再び白紙にしてしまいます。

企画が再度白紙になってしまった原因は作品内容に影響された訳でもないでしょうが

なんとスパイ事件!

またしても内容が被るアニメーション企画が他で進められているというものでした。

その作品というのは「宇宙少年ソラン」(昭和40年5月~・TCJ制作)です。
主人公のソラン少年は地球人の子ではあるものの遭難して宇宙人に救けられた少年

(=宇宙少年)であり、やはり手塚漫画的なSFヒーローですが、

作品世界は漫画版の「ナンバー7」の方が近く、主人公の境遇も大島七郎の方が

似ているのでスパイ版ナンバー7にとっては問題はない様ですが、

しかしソラン少年の肩には宇宙リスの「チャッピー」が載っていてソラン少年を

サポートするというのです。

虫プロ内では「スパイだ」「情報漏洩だ」と大騒ぎになったようで、

ほどなく「下手人」とされる者の名が挙げられました。

後年、SF作家としても有名になるトヨダユーコー(豊田有恒)君です。
当時彼は虫プロ文芸部に籍を置いて脚本などを書いていましたが、

「宇宙少年ソラン」の脚本陣にも名を連ねていたのです。
(息子丈彦注、豊田有恒さんは、筆名「とよたありつね」、本名は「とよだありつね」

というのが正式な読みであられるようですが、杉山卓は常には上記のような呼び方を

するので表記に反映させて頂きました。なおイントネーションは「豊田通商」と同じです)

トヨダユーコー君はあくまで否認したものの、結局犯人扱い同然で虫プロからは

去る破目になったようです。
後年手塚さんとは誤解を解く機会もあり、トヨダユーコー君の仕業ではないことも

了承されたそうですが、
しかしそのトヨダユーコー君自身が自分ではないとしつつも「当時の仲間内全体では

そういうこともあった可能性はある」的なことも言っているようですから、

まあスパイとかそんな大それたものじゃなくとも手塚風アイデアを皆で

共有するような雰囲気というか、気分が周辺を覆っていた部分はあったのかもしれません。

そうしたことがあったのはだいたい昭和39年(1964)の暮れぐらいのオハナシであったようで、そのころの私はと言えば、たけなわであった「ドルフィン王子」の製作のかたわら、

前に紹介した「剣に生きた男」の絵を描いたり、ベフプロの件で虫プロにちらちらと交渉に

現れたりしていた頃ということになります。