そこで、ということなのか、その次には私に漫画を描いてみないかというハナシに
なった訳ですが、集英社的には私に漫画を描かせておけばその作品をアニメ化出来る
可能性もあるし、私としてはそういう布石として意味があったのかなあ程度に最近まで
考えていたのですが、しかしどうもその割には長野さんも西村さんもやる気というか
本気度が高かった。非常に斬新で冒険的な企画の提案もありました。
で、これもやはり推測でしかないのですが、もしかしたら長野さんが
私の漫画を載せようと考えていた雑誌は実は「少年ブック」ではなかったのでは
ないかという疑問が湧いてきました。

その背景には当時、少年雑誌界を覆っていた大きな潮流の変化があります。
その変化はとても急激なモノでした。
なにしろ先にご紹介した昭和四十年二月号ではまだ「鉄腕アトム」や「鉄人28号」を擁して
堂々たる貫禄を誇っていたトップランナーの「少年」誌がわずか3年後の昭和43年(1968)には

休刊に追い込まれる程のものだったのです。
多くの出版社がその変化に対応しきれない程でした。「少年」の光文社は出版社としては

現在でも盛業ではあるものの、「少年」休刊以後漫画出版社としてのイメージは

なくなってしまっています。

代わって台頭したのは週刊漫画誌でした。漫画中心の週刊少年誌のスタイルは現在と

同じものです。
その起源は実は月刊誌全盛時代に既に根ざしており、講談社の「少年マガジン」や小学館の
「少年サンデー」は昭和30年代半ばには既に創刊していたのですが、潮流の変化は

昭和40年代に入ると急激にやって来ました。その大きな原因と言われるのがテレビアニメの

出現です。
テレビアニメが毎週新作というスピード感を一般化してしまったからだと言われています。
新幹線や高速道路がどんどん開通する、世はまさにスピード時代でありました。
アトムや鉄人が自らのホームであった「少年」誌に引導を渡してしまったのは実に皮肉な

オハナシと言えましょうか。

一方、当時の集英社は現在の感覚からするとまだ弱小出版社で、「少年ブック」も

月刊少年誌の中ではメジャーな存在ではありませんでした。
しかし、長野さんはとても時代の趨勢に敏感な編集者であり、テレビアニメの出現にも

いち早い対応を進めていました。ですので漫画に関する私への働きかけも実はそうした

大きな潮流への対応の一環だったのかもしれないと思うのです。
なぜそう思うのかというと、長野さんがこの時私に提示していたとてつもなく斬新な

企画からです。

この時期長野さんは時勢の変化に対応した新雑誌の構想を既に持っていて、

その雑誌の目玉企画に私の漫画を考えていた可能性があるのではないか?

手塚さんの件で私が唐突にいなくなったことも含めて新雑誌の準備にはまだ時間を要したが、
長野さんの提示した企画は、この間に強力な新人を得ることで仕切り直しを果たし、
新雑誌で世間に一大センセーションを巻き起こすことに成功したのではないか?


長野さんが私に提示していた斬新な企画、それは「学園お色気漫画」というものでした。


すなわち、長野さんが構想していた新雑誌の誌名は「少年ジャンプ」、
私に代わって長野さんの企画を実現した有力新人の名は「永井豪」、
そして彼が長野さんの企画のもとで創りあげた作品は「ハレンチ学園」ということになります。


周知のとおり「少年ジャンプ」は長野さんの手で昭和43年(1968)に創刊され、永井豪君の
「ハレンチ学園」はその創刊号の目玉作品の一つとして一大センセーションを

巻き起こしました。

「学園お色気漫画」(「学園エッチまんが」とでも言った方が今は通じやすいのでしょうか)と

言っても今日的感覚では「少年漫画の数あるジャンルの中からそのうち一つを提示された

だけでは?」と思う方も多いかもしれません。しかし、昭和40年当時、

そんな漫画はまだ全く存在していなかったのです。
3年後の43年にもまだ存在していなかったので「ハレンチ学園」が一大センセーションと

なったのです。
編集者としてのリスクや覚悟の面からもそうした企画をあちこちへ乱発していたとは

思えません。

当時既に、清酒黄桜のカッパのイラストで知られる小島功さんなどは大人向けの

「艶噺」とでも言うべき漫画を描いていましたし、台頭しつつあったいわゆる劇画にも

裸の女性が登場するシーンがあったりはしましたが、これもむしろ大人のハードボイルドな

世界を表す道具立てであり、少年向きにストレートにエロティシズムを喚起するような漫画は、少なくとも大手雑誌ではまだ存在していなかったのです。
多分アンダーグラウンドな存在としての「エロ漫画」もまだなかったのではないでしょうか。
なにしろウランちゃんやワカメちゃんのパンツが常時見えているのがむしろ
「彼女らが未成熟な存在であり、性的な対象ではないことを示す記号」として

成立していた時代のお話です。

今では考えられないようなオハナシですが、「少年ジャンプ」の創刊したころには

弱小出版社集英社の新雑誌創刊ということで、人気漫画家の協力が得づらく、

仕方なしに大胆な新人起用を強いられたのが
今日まで続くジャンプの新人重視の編集方針の起源というハナシも

伝わっているようですから、長野さんがその前段階で私にまで声を掛けていたのも

そういう流れの一端だったのかも知れません。
実は永井豪君とは、ずっと後年の話ですが海外展開で協力したこともあり、

お互い見知った関係なのですがなにぶん彼のデビュー前の話でもあり、

彼もこのへんの話は知らないのではないかと思います。

そう言えば「少年ジャンプ」との関係で言えば、「ベフプロダクション」の名称もあります。
当時ベフプロの名前を聞いて酒井一美は「変な名前だなあ」と思ったそうですが(笑)、
この名前は長野さんの発案で、VEFプロダクションとも書き、長野さんの考えていた

少年漫画の三原則、Victory(勝利)、Effort(努力)、Friendship(友情)の頭文字を

取ったものでした。
後年「少年ジャンプ」の(編集上の)スローガンとして有名になった「努力・友情・勝利」

そのものなのです。

ベフプロについても手が回らなくなったのでオカセコ(岡迫亘弘)君に引き継いでもらうカタチに
なりました。オカセコ君は東映時代の仲間で、白蛇伝メンバーですが、手塚さんが虫プロを

旗揚げするといち早く虫プロに移籍していたのです。
結局、私が「W3(ワンダースリー)」のチーフディレクターとしてオカセコ君のベフプロに

下請けを出すというカタチになったので当初予定とは中の人間が入れ替わったような結果に

なってしまいました。
その後オカセコ君は「レインボーマン」など特撮系のデザインなどでも数々の仕事を

こなしましたが、
ベフプロは集英社との関係も薄くなり、虫プロの下請けとして虫プロと運命を共に

してしまったそうです。


あのまま漫画家になっていたら、どうなっていただろうなあ?

時間が経ち、あのときのことを思い返して考えてみることもあります。
長野さんのバックアップがあれば、あるいは最初の作品ぐらいはある程度ヒットさせることも
出来たかもしれません。
しかし、その後も考えるとき、比較の対象が「永井豪」では随分と分が悪い(笑)
また、豪君はピチピチの新人だったからいいけれど、私では妻子を抱えてエッチな漫画で

ミルク代を稼ぐのも大変そうです(笑)

随分と光栄なことではあったし、アニメでもいろいろ出来たから、やっぱり私はあの時

手塚さんに引っ張って貰って良かったんじゃないかなあと思っています(笑)