長野規(ながのただす)さんは集英社の編集者。この当時は同社の雑誌「少年ブック」の
編集長でありました。
「少年ブック」は前回ご紹介した光文社の「少年」と同じく少年向けの月刊誌です。
集英社との関係の始まりは他の出版社とは違いアニメーション関係からでした。
「集英社がアニメの企画をやりたがっている」というオハナシが人づてに私にたどりつき、
毎週水曜日に集英社の企画会議に呼ばれるようになったのです。
当時、「少年ブック」で手塚治虫さんが連載していた漫画「ビッグX」はこの年(昭和39年・
1964)の8月にはテレビアニメ化がなり、当時はまだ放送中でした。(翌40年9月まで)
このアニメ化も長野さんの人脈で実現したものだと聞きます。制作を担当したのは
東京ムービー(現トムス・エンタテインメント)であり、この作品の制作が同社の
始まりとなっています。手塚漫画を手塚さんとは直接には関係ない会社が
アニメーション化した例の一つです。
「鉄腕アトム」放送開始からまだ1年半程しか経っていなかったこの時期に、虫プロとも
東映とも無関係な人脈でテレビアニメを1本纏め、番組として成立させてしまった事実は
確かにもの凄いことだったのですが、それはすなわちスタッフのほとんど全員が
アニメーションも映画作りも本格的なモノは未経験だったということに外ならず、
残念ながらこのアニメの評判は芳しいものではありませんでした。
手塚漫画のアニメであり、当然絵柄も手塚調ですから、「出来が悪い」というお叱りが
虫プロに来てしまって困ったというハナシを聞いています。
だからということなのかどうなのかは判りませんが、私への働きかけは放送中の
「ビッグX」とは無関係に進められていきました。集英社的には「ビッグX」後を睨んだもの
だったのかも知れません。そこで私はまず、集英社の意向を汲んで「ベフプロダクション」
というプロダクションを立ち上げました。プロダクションと言ってもこの時点では会社でも
何でもありませんでしたし、メンバーも私だけ、言わば旗揚げしただけです。
集英社的には「ビッグX」後の作品を手塚さんに企画してもらい、虫プロの監修のもと
実製作はベフプロで請け負うような体制を構想していたものでしょうか。
しかしこの時期、虫プロは多忙で、集英社の希望に沿う企画を立ち上げている余裕は
ありませんでした。まず「鉄腕アトム」の毎週1本の制作が続いています。これに加え
ポストアトム的な意気込みのカラー作品として「ジャングル大帝」の構想も進んでいました。
昭和40年お正月に単発スペシャル番組として放送された「新宝島」(アニメ版)も当初は
手塚漫画を次々アニメ化してゆくという番組企画でしたし、アニメ企画は他にももう1本、
トラブル続きのものが企画されていました。
いっぽう集英社側の構想は作品内容についてはまだなにもありません。なにしろ
「少年ブック」では手塚さんの漫画版「ビッグX」の連載も続いていましたので、
新企画は何ら具体的なモノではありませんでした。長野さんや私が虫プロに
コンタクトを取ってみても「出せるものがない」という返事です。
そんなこんなで「集英社主導のアニメーション」企画が暗礁に乗り上げ気味となったころ
集英社側、特に長野さん腹心の西村繁男さんからあるお誘いを頂きました。
お誘いとはズバリ、「ウチの雑誌で本格的な漫画を連載してみませんか」というもの。
私は一応、東映動画に入った直後から岡部さんのお誘いで「山と渓谷」誌に
「山族野郎」というタイトルで漫画を「連載」していましたが、この漫画にはページ数の
決まりもノルマもなにもなく、
カットサイズの1コマ漫画や1ページでも1コマだったり4コマ2本だったり、
適当に描いたものを編集部に納めておくと、編集部の方でプールしておいて、
誌面にスペースが開くとはめ込んでいき、原稿料が支払われるという
ゆるいシステムのものでしかありませんでした。
そもそも「ヤマケイ」の読者である山男たちにとっては漫画は刺身のツマと言うか
お弁当のパセリ程度のものでしかなく、たとえ広告であっても山道具や山行き臨時列車の
広告の方がよほど真剣な興味を引くというものです。
他には挿絵などもあちこちに描いていた訳ですが、こちらも主役はあくまでも文章、
しかし少年雑誌の漫画は言わばメインディッシュなのですから同じ絵を描くにしても
量も責任も段違いです。
とはいうものの、オハナシやキャラクター作りなど内容を考える部分は
映画やアニメーションと共通の部分も大きいですし、
私自身、「絵の仕事」として捉え、それまでアニメーションも漫画も挿絵もさほど区別して
考えてはこなかったこともあり、「一度そういう仕事もやってみよう」くらいのつもりで
お話を進めていくことになったのです。
そんなわけで昭和39年(1964)の年末に向かって、私の身の周りはにわかに忙しさが
増していきました。
まずはなんといっても「ドルフィン王子」です。
前述の通り「ドルフィン王子」は岡部一彦さん、北川幸比古さん、私の3人が中心となって
製作していましたが、岡部さんは漫画家としての実績もある人ですが今回は会社そのものの発起人でもあり事務系や企画成立にエネルギーを取られます、北川さんは文章の人、
いきおい動画の製作実務は私中心になっていきます。
前述のように作画を引き受けてくれるアニメーターのアテは幾らもあった訳ですが、
テレビ動画(株)側に立って動画を纏めていくのは私が中心になってやる外にない。
東映動画や虫プロ全体のマンパワーに匹敵することを要求される部分もあったわけです。
仕事が進むにつれて翌40年(1965)の4月にひとまず全3回の放送が正式に決まります。
連続テレビシリーズとしては3回は極端に少ない数字ですが、それでも
1本のテレビシリーズを立ち上げるためにやらなくてはならないことは長期シリーズと
全く同じ部分が大半です。実際、「ドルフィン王子」はそのへんをきちんとやっていたので、
ほぼそのまま長期シリーズ「海底少年マリン」になることが出来たわけです。
そんな中でこなした仕事なので、実は前回ご紹介した「剣に生きた男」、
それなりに分量のある仕事なのにまるで覚えていない(笑)
なにしろ動かぬ証拠がありますから、私がやったことは間違いないが、
まるで憶えていない(笑)
察するに光文社とのやりとりは北川さんに任せておけばよかったし、
一番必要な北川さんとの打ち合わせは「ドルフィン王子」の打ち合わせに混ぜて
ちゃっちゃとやってしまったからでしょう。
この時期、秋元書房などの挿絵仕事などもそれなりにやっているのに
同様に全く憶えていない(笑)
そこに集英社長野さん西村さんとの打ち合わせが加わった訳です。
進めてみるとオハナシは思っていたよりも本格的なモノで、
とりあえず毛色の違った作家の作品も載せてみようなどという軽いものではなく
かなり本気の取り組みの様子。長野さんからとある斬新な企画を提案してくる
力の入れっぷりです。
ハナシが存外に大きいので集英社との打ち合わせも年末年始に向けて
数を重ねていくことになりました。
そして家では身重の妻が臨月に近づいています。酒井一美は39年秋に虫プロを辞め、
出産は翌40年の2月頃に見込まれていました。忙しさにかまけて家に帰らないことも多く、
初産なのにほったらかしにして悪いことをしてしまったと思っています。
そんなこんなで2月中旬、男の子が生まれました。
私自身は田無の病院へ急行したことしか憶えていませんが、
酒井一美によれば私は神保町の集英社から急行してきたそうですから、
この日も長野さんたちと漫画の打ち合わせをしていたということになります。
岡部一彦さんから1字を頂き「丈彦」(たけひこ)と命名しました。
このブログを手伝ってくれている息子です。
<本人記>
えー、本人です。これまで差し出がましくなるのを恐れてあえて名前は
出して来ませんでしたが、別段匿名希望という訳でもありませんのでここで
名前が出てきたことでもあり、ご挨拶をさせていただきます。
杉山丈彦と申します。当ブログでは原稿のタイプアップやサイトの管理、
訂補をさせて頂いております。
今後とも引き続きよろしくお願い申し上げる次第であります。
家族が増えましたので都営住宅が手狭になることも考えて、
このころ公団住宅にも応募しました。
この時代はまだ中層団地(4~5階建て)の時代でしたが、
団地は新しいライフスタイルとしてとても人気があり、
新築の公団住宅はどこも抽選制だったのです。
こうしてまさに忙殺という状態でどうにか仕事をこなしていたある日。
細かくは息子が生まれた2月の半ば以降、3月半ば以前のある日。
集英社の編集部に1本の電話が入ったのです。
電話の主は手塚治虫さんでした。