厳密には虫プロの準備は「手塚治虫プロダクション動画部」という名前で前年の

昭和36年(1961)にはもう始まっていたようですが、

正式に「虫プロダクション」と名乗るようになったのは昭和37年の1月のことでした。
手塚さんが東映「西遊記」で初めて本格的にアニメーションに関わったのが昭和35年で、

翌36年には準備開始、37年には正式に虫プロを旗揚げして翌38年の1月1日にはもう

「鉄腕アトム」のテレビ放送が始まってしまったのですから、

もの凄いペースで立ち上がっていったと言っていいでしょう。

虫プロが登場するまでの日本のアニメーション界は大きな存在としての東映動画の他にも、
従来からアニメーションを手掛けてきた中小の独立プロダクションは

複数ありはしたのですが、やはり資本的にも設備的にも人員的にも東映動画の存在は

圧倒的なものでした。
それが突如、東映に比肩するようなアニメスタジオが出現しただけでなく、

テレビアニメという従来全く存在しなかった新しい活躍の場がアニメーションに

与えられた格好になった訳です。
言わば、アニメーター個人にとってはこれまでの、東映に関わるか否かの二択という状況が

一挙に多極化していく節目の時期に当たっていた訳ですが、

そんなアニメーションにまつわる情勢の変化をよそに私は1年間、

ひさびさの学生生活を武蔵美で満喫していました。

翌昭和38年の春、私は学校法人武蔵野美術大学の武蔵野美術学校を、

入学したのは2年制の夜間部だったのが修了したのは4年制の昼間部西洋画科という

1回聞いただけではなんとも解りづらい経歴で卒業しました。

前述の通り、東映動画はありがたいことに卒業したら戻ってこいと言ってくれていました。
もっとも息子は、そりゃ給料払って養成して、やっと一人前になったばかりなんだから

当たり前だと笑いますが(笑)
しかし私は、結局東映には戻りませんでした。その後「花の子ルンルン」などで

東映動画作品に参加したことはありますが、社員としては戻らずじまいです。
別段もう東映には戻らないと決めて退社したわけではありませんが、

自然と戻らぬ流れになっていったのです。そのキーマンとなったのは岡部一彦さんと

森康二さんでした。
なんのことはない、東映に入ったればこそ出会った先達二人の導きなのですから、

あまり悩む余地もありませんでした。

卒業が近づいた頃、まず最初に私に声を掛けていただいたのは岡部一彦さんでした。

岡部さんもこのころ新たな動画スタジオの設立を目論んでおり、

東京光映という制作会社を軸に計画を進めていたのです。
しかし、この東京光映の計画は当初の想定ほどには順調には進まず、

宙に浮きかかったところで、今度は森康二さんが岩波映画に私を紹介してくれ、

私は当面岩波で仕事をすることになりました。

株式会社岩波映画製作所はご存じ「広辞苑」の岩波書店の関連会社であり、

産業映画、PR映画、科学教育映画などを主体とする映画会社でした。
テレビも普及途上、ビデオもない当時、エンタテインメントの劇映画以外も、

全ての映像表現は映画としてフィルムで作られていたのです。

岩波映画はそうした娯楽以外の映画を主体とする映画会社でした。
劇映画に比べれば地味な存在ではありますが、羽仁進監督など著名な監督も

参加されており、そのレベルはけして低いものではありませんでした。

こうした映画は短編が主体なので、岩波映画の現場は少人数の無数の小班に

分かれており、それぞれが並行して1本ずつ映画を作っているという体制でした。
この中で私もアニメーションを武器に映画を作っていくわけです。
そういう環境なので作るアニメーションも東映などの「漫画映画」とは少しく毛色の

異なるものでした。
そもそも醸造所とか送電鉄塔とか具体的な見せたいものがあったりしますので、

そうしたものを見せるシーンは実写の方がよほど適している。

アニメーションは抽象的なものや実写で撮り辛いものを見せるシーンに使うので
岩波では「線画」と呼んでいました。説明イラストや可動テロップからの発展

ということなのでしょう。

岩波時代の私は、さまざまな産業映画に「線画」を主体に関わることになりました。

八幡製鉄の製鉄作業工程、瀬戸内海の海運、四国電力の発送電

(これは山陽映画という別の会社の発注でした)などいろいろな作品を手掛けましたが、

中でも印象に残っているのはサントリーの作品です。
サントリーは当時既に「アンクル・トリス」で知られるアニメーションCMなども

製作していましたが、私が関わったのはもっとハードな、ウイスキーやワインの

製造工程を追うドキュメント的な映画でした。
山梨県のワイン用のブドウ園や有名な山崎の醸造所にも出向き、取材して、

映像を作り上げていきました。
山崎の醸造所では1923(大正12年)の銘のあるサントリーが最初に仕込んだウイスキーの

中身入りの樽を見学したことを憶えています。

昨今はアニメに負けず世界での日本製ウイスキーの評価もトップレベルに上がり、
高級なものは原酒払底と価格高騰で愛飲家が悲鳴を上げるほどとも聞きますが、

あの樽は今でも同社の至宝として大切に保存されているのでしょうか(笑)

私が岩波映画で仕事をしていた時期は存外短く、せいぜい1年前後のことでしたが、

岩波での経験はその後の私にとってはとても貴重なものとなりました。
私は新人として東映動画に入った直後から「白蛇伝」という本格的な大作映画に

関わることが出来る幸運に恵まれたわけですが、その一方で東映における私は

あくまで末端の一兵卒に過ぎず、むしろ大きいがゆえに与えられた作業を

こなしていただけで映画作り全体を左右するようなことには関与していませんでした。
一方、岩波では短編とはいえ私も一本一本の映画の企画・構想段階から

フィルム・アップまでの全工程に関わるような仕事を与えられたのです。

言わば「映画の作り方」というものの全般を基礎から叩き込まれたようなもので、

その後の私に出来る仕事の範囲を大幅に拡げてくれる日々だったと言えるのです。

そうこうするうちに今度は岡部さんの計画が進展し、岡部さん構想の動画スタジオが

「テレビ動画株式会社」という名前で立ち上がるにいたりました。ここで私は岡部さん、

母校の先輩でもある北川幸比古さんとともに世界初のカラーテレビアニメーション

(「鉄腕アトム」はまだモノクロでした)の企画を立ち上げることとなったのです。

この作品は紆余曲折を経て「海底少年マリン」として知られる作品になっていきます。