昭和37年(1962)は私にとっては転機の年となりました。
前回も書いた通り、武蔵美の夜間部は2年制でしたが、そのあとに研究科というのがあり、
もう1年通うことができました。
こうして武蔵美の夜間部の修了が迫った昭和37年の始め、こんな話を頂いたのです。
「君はとても熱心なので、もし君が望むなら特別に昼間部の4年に編入を認めては
どうかという話が出ている。どうかね?」
本来4年制の昼間部と2年制の夜間部は全く別立てのシステムで、転科とかそういう制度は
ありませんでした。前代未聞のことだったそうです。
前述の通り、この時分の武蔵野美術「学校」は旧制の芸術系専門学校でしたのでそんな
ことも可能だったのかもしれません。
美術学校には独特の気風があり、大学として認められる代わりに一般教養などが導入されて
純粋性が低下することへの抵抗もあったと聞きます。
実はこの時期、武蔵美もついに新制の大学への切り替えの時期でもあって、
まさにこの昭和37年度から新入生は武蔵野美術「大学」1年生として入学する予定でした。
大学ともなるとこんな運用は難しいでしょうから、空前にして絶後のことともなったようです。
しかし、昼に転科となると東映動画の社員のままという訳にもいきません。
ところが会社は、ならば退社もやむなし、卒業したら戻ってきなさいと言ってくれました。
そこで正式に転科の希望を表明し、夜間部研究科の卒業制作の油絵を提出しました。
提出したポートレートのモデルを務めてくれたのは酒井一美です。
なんでも審査の席で、昼間部のある先生が「ボクはこういう絵、好きだなあ」とつぶやいたので
転科の許可が決まったとか聞きました。
とにかく、そんなわけで37年の春から、私は学生に戻って昼間の武蔵美に通うことになったのです。
そしてこの年の秋、私は酒井一美と結婚しました。
学生なので学生結婚といえば学生結婚ですが、いわゆる学生結婚ではないし、
職場結婚で間違いないのですが、私はもうその職場を辞めてしまっている不思議なタイミングではありました(笑)
二人の新居は田無(現西東京市)の都営住宅に構えました。
こうして私の生活は一つの区切りを迎えたのですが、実はこの年、
昭和37年は日本のアニメ界にとっても新しい段階に進んだ年であったのです。
それは、虫プロダクションの旗揚げによるものでした。