東映動画設立当時の東映の採用方針は、全く独自の裁量で当たっていたものか、
大胆にも絵に関する判断のみで学歴などはあまり重要な判定基準ではなかった様子。
このことは単なる浪人生であった私が採用されたことからも分かります。
しかし東映に入ってみると私のように学歴などすっ飛ばして入ってきている者がいる一方で
けっこうな学校を卒業している人も少なくありません。
なにより森康二さんや同期の小山礼司氏は私が目指していた芸大を卒業しています。
絵描きやアニメーターとしての技量では引け目はさほど感じなかったとはいえ
やはり元々は浪人生でしたから、アニメーターとして生活が安定してくると
もっと学校で勉強をしたいという気持ちも湧いてきます。
そこで調べてみると、武蔵野美術学校(むさび)には夜間部というのがあり、
働きながら通うことも出来るようです。
会社の方にもお伺いを立ててみると協力的で、多少の便宜は図ってくれる様子。
そんなわけで私は昭和34年(1959)の春から夜間は夜間部西洋画科の学生として武蔵美に
通うことにしたのです。
この当時の武蔵美は、まだ旧制の「芸術系専門学校」の扱いでした。
戦前には芸術大学というのはなく、旧制の画学校や音楽院の位置づけで、
昼間の学科は4年制でしたが、この夜間部は2年制でした。
前回の「西遊記」のころにはもう武蔵美に通っていたことになります。
しかし、通うに当たっては一つ問題がありました。
通勤・通学の導線がうまくいかないのです。
東京の西郊は山手線の駅をターミナルに幾つもの鉄道線が並行して西へ向かっていますが、
都心へ出たり東西方向に移動するには便利ですが、南北方向に移動しようとすると
バスに乗り換えなくてはなりません。
当時住んでいた杉並区方南町は京王線と中央線の間。東映のある大泉は3本北の
西武池袋線沿い。
ここから当時武蔵美のあった吉祥寺は2本南の中央線。
これを毎日順に回るのは電車とバスを何本も乗り継がねばならず、
時間的にも金銭的にも甚だ効率が良くありません。
そこで私は一計を案じました。オートバイを購入して足とすることにしたのです。
実は最初、安い中古のバイクを手に入れたのですが、
初日に壊れてしまうというアクシデントに見舞われました。
で、やはり安物はダメだと一念発起して、新車、
当時のパリパリの最新型のニューモデルを奮発したのです。
60年前の最新モデルですが、これはみなさんもよくご存じのバイク、
ホンダのスーパーカブを買ったのです。
このカブはあちらへこちらへと、実によく走りました。
買ったのは50ccのモデルでしたが、後ろに酒井一美を乗せて走ったりもしました。
当時も50ccの二人乗りは違反でしたが、もう時効だからいいでしょう(笑)
そのあたりのことはお巡りさんを含め、まだ誰も気にしていませんでした。
もちろん、ヘルメットなどというものは兵隊の鉄兜くらいしかなかった時代なので
みんなノーヘルです(笑)
おおらかな時代と言えば美しいですが、当時も事故は相応に起きていたはずなので
危ない時代でもあった訳です。