本邦のアニメーションにとって原点的作品となった「白蛇伝」実現の立役者と言えば、
3人の人物を挙げることができると思います。
1人目は「企画」としてのキーマンであった岡部一彦さん。
2人目は実際のアニメーション製作を一手に取り仕切った森康二さん。
そして3人目は東映の大川博社長です。

この3人なくしては「白蛇伝」はなく、「白蛇伝」なくしては今日の日本のアニメーションの
隆盛もないか、相当違った形になったに違いない。そういう存在です。

大川社長は、鉄道官僚の出身で、戦中戦後は電鉄王の異名を取る東急の総帥、

五島慶太社長のもとで大番頭役を務めていたといいます。
その後、赤字会社であった東急系映画会社の再建を任され、
それらを東映として纏め、見事再建を果たしました。

大川博氏は東映の初代社長にして名物社長でした。
社員だけでなく出入りの役者やスタッフにも「社長」ではなく「大川さん」「大川さん」と呼ばれ
親しまれていました。
太っていて、丸メガネを掛け、なぜか訛っていてヒトに「チミチミ(君々)」と呼びかける
「社長」の伝統的なステレオタイプ像は東映の喜劇映画から広まったもので、そのモデルは
大川博とも言われます。

既述の通り戦前から戦中にかけての日本のアニメーションは政岡憲三さんと
松竹が中心となっていましたが、戦後、松竹はアニメーションからは手を引いてしまいました。
戦前戦中の日本のアニメーションも劇場での評価や人気はけして低いものではなく、
また松竹もそれなりに力を入れており、政岡憲三さんが昭和8年(1933)に完成した日本初の
トーキーアニメーションといわれる「力と女の世の中」(フィルム現存せず)では、
当時、榎本健一と「エノケンロッパ」と並び称された人気喜劇俳優、

古川ロッパを本邦最初の声優として投入したりもしています。

こうした作品が好評を得つつも商業的に続かなかった原因はその尺長(上映時間)にありました。
戦前のアニメーションの製作体制では、資金面からもマンパワーの面からも尺長はせいぜい
10分から20分前後。

これでは看板作品として劇場(映画館)に掛けて興行収入を稼ぐことはできず、

ニュース映画等と同様の幕間のおまけにしかならないのです。
戦後の日動が一旦潰れてしまった原因も全く同じでありました。
「桃太郎 海の神兵」だけは海軍省の後援を得ることで74分という1時間超えの尺数を実現しましたが、
敗戦によってこれも海軍もろとも雲散霧消してしまいました。

つまり、日本でアニメーション製作を事業として成立させるためには、

長編作品を完成して、アニメーションが1本立ちの「映画」として成立し得ることを

示さねばならなかったのです。

戦後、日本で最初に長編アニメーションを作ることを考えたのは、

実は岡部一彦さんでありました。
岡部さんは構想をある程度纏めると、

大胆にも東映の大川社長に会ってこれをぶつけたのだそうです。
大川さんはちょうど東映を軌道に乗せ、多角化を考えるタイミングでした。

そうして大川さんは岡部さんの提案を容れて決断し、

日動映画を買収して東映動画を設立したのです。
大川さんは日動買収時点から、「白蛇伝」の製作のみならず、

日本に世界に向けて発信できる、ディズニーに比肩できるような本格的で

大規模なアニメーションスタジオを育て上げることを目標としていました。
日本の大手私鉄の経営戦略は、鉄道事業を単に電車を走らせる商売と捉えず、

沿線の宅地開発を軸とした都市総合開発として捉えたことに特徴がありますが、

大川さんが東映動画の設立に当たって立てていたビジョンは

そうしたものに匹敵するような遠大なものだった訳です。

こうした訳で東映動画はその最初から「白蛇伝」の製作を意識しており、

われわれ養成班は言わばその最初の戦のために集められた

兵隊のようなものだった訳です。
こうして体制、陣容が整うと、いよいよ東映動画は本番、

「白蛇伝」の製作へと進んで行きました。
昭和32年(1957)のことです。


追記
息子が見つけてきたところによれば、
なんと「白蛇伝」の予告編がユーチューブに上がっているそうで。
私は当時、この予告編を見た記憶はないのですが
大川さんも出演しておられ、挨拶しているだけでなく
東映動画の将来展望を自らはっきり語っているようで驚きます。
https://www.youtube.com/watch?v=0OYPDwv1Afo&feature=youtu.be