東映動画の出来た頃の大泉は周辺に何もなく、畑の中に東映の撮影所が忽然と存在していました。
大泉撮影所は正式には「東映東京撮影所」というので関係者は「東撮(とうさつ)」と
呼んでいました。
昭和30年代前半のこのころは、映画こそが娯楽の王様であり、東映にとっても黄金時代でした。
当時、東映は年間100本、週に2本のペースで新作映画をリリースしていたと言われます。
この数は当然太秦(東映京都撮影所)の分も含むとはいえ、
1週間で1本の映画が出来るわけもなく、
東撮では数本の映画撮影が常時、並行して進行していたわけです。
撮影も作業も夜間に及ぶものも少なくないので24時間営業で、まさに不夜城でありました。
東映動画の社屋は東撮の隣というか、敷地のうちの門外部分に建てられた格好で、
東撮と東映動画の関係は初期ほど一体感が強かったのです。
東映動画の社員も撮影所内の設備を利用することが出来て、
我々もしばしば門内へ出掛けてお世話になりました。
一番お世話になったのは食堂です。
東撮門内には基本的には中に「ステージ」と呼んでいた室内セットの入った倉庫のような
スタジオの建屋が並んでいるわけですが、
それとは別に食堂のある建物があり東映動画の社員も利用することが出来たのです。
そばが15円、カレーライスが30円(5000円の給料を5万円とするなら、
今のお金で150円、300円ぐらいでしょうか)と格安なうえ、
東映動画の管理課で、給料天引きではあるものの、
出してくれるチケットで食べられましたので
給料が安くても会社にいる限りは喰いっぱぐれる心配はありませんでした。
食堂の隣には喫茶室もありましたが、こちらは食堂よりちょっと高級で、値段も高く、
大スターが一服していたりするので大部屋俳優さんたちや私たち駆け出しアニメーターには
あまり居心地が良くなく、滅多に使いませんでした。
場内の施設にはお風呂もありました。
小ぶりな銭湯のようなお風呂が、これは24時間お湯が沸いていて自由に入れました。
温泉旅館並みです。
当時は単身者のアパートなど風呂無しが普通の時代ですから、これはもう自宅より便利です。
ただ、このお風呂は、男湯でも大変に白粉臭かった。
ドーランを厚塗りした役者さんが次から次へと落としに来るのですから当然のことですが。
他に仮眠所もありましたが、こちらは東映動画内にも
アニメーター用の仮眠室がありましたから自前です。
夜寝るところもあるわけで、家に帰ったところでテレビもない時代ですから、
酒でも持ち込んで仲間と駄弁っていた方が楽しいわけです。
こうなるともうほとんど家に帰らない者も出てきます。
実際、月に何回かしか家に帰らず、「東映に住んでいる」状態のヒトも何人かおりました(笑)
このころの我々アニメーターは、昼休みには毎日悪童のような遊びに打ち興じていました。
最も代表的なのは「銀座四丁目」でのカンケリです。
銀座四丁目で子供のようにカンケリ遊びをするのですが、
もちろん本物の銀座四丁目ではありません。
門の向い、現在はショッピングセンターのあるあたりも全て東撮の用地であり、
オープンセットが建てられていました。
というより、門前のオープンセット用地の一部に東映動画が建てられたのです。
オープンセットの大半は仮設の建て壊しでしたが、
頻用するものはパーマネントセットと言って常設のものもあったのです。
銀座四丁目は同地の建物の下の方が再現してあって、
本物の服部時計店などのカットに続けてここで人物を撮影すれば、
通行人や野次馬を気にせず大スターも銀座シーンが撮れるという案配でした。
他にも東撮裏の白子川でウナギを捕ってくるものがいたりと悪童そのものの毎日ですが、
我々山好き連が、ザイルやカラビナを持ち込んで東映動画の3階建ての外壁で、
降下遊びをやった時には東撮側から丸見えで
「あれは何だ?」とちょっとした騒ぎを起こしてしまったこともありました(笑)