われわれ養成班の教育の担当をしてくださった熊川さんは、
アニメーションの作画、演技には並々ならぬ技術と見識をお持ちの方でしたが、
どこでそのような技術や見識を得たのかについてはあまり語りたがらず、
当時はわれわれ養成班は詳細には知りませんでした。
ただ、京都でアニメーションについて学んだとだけ聞いていたのみです。
しかし、これは後に知るようになったことですが、熊川正雄さんは実は、
戦時中に製作された名作アニメーションとして著名な作品「くもとちゅうりっぷ」を作画した
10人のアニメーターのうちの1人だったのです。
そして「京都」というのは「くもとちゅうりっぷ」の監督である政岡憲三さんが
京都の地に設立した動画スタジオ
「政岡映画美術研究所」(昭和8年・1933設立)であったようです。
私は「桃太郎」に触れた回で、
『「桃太郎」を作った人たちや組織は戦後の日動や東映動画とは直接の繋がりは
ありません。』
と書いたが、これは少々誤解を招く可能性のある表現だったかもしれない。
確かに「桃太郎」を製作した松竹系の会社や動画スタジオや製作体制といった組織は
戦後に引き継がれなかったが、
戦後の日本のアニメーションはそれらを構成していた人脈や技術と無関係に始まった訳では
けしてないのである。
政岡憲三さんは東映動画の元になった日動映画のさらに元となった
日本動画の設立メンバーでもある。
日本のアニメーションはほぼ政岡憲三さんに始まると言って良いだろう。
政岡さん以前にもアニメーションによる映画製作の試みは存在したが、
それらは切り紙によるアニメーションが主体で、
セルによるアニメーション映画製作を日本で初めて試みたのは政岡さんと言われている。
「桃太郎」には政岡さんも自ら影絵パートで参加されているが、
監督の瀬尾光世さんも政岡さんにアニメーションを学んだ一人である。
政岡さんは戦争が終わると日本動画株式会社(通称「日動」)を設立(昭和23年・1948)、
このときに参加し、政岡さんに学んだのが後に東映動画の我々に最も大きな影響を与えた
森康二さんである。
しかし、昭和25年(1950)には旧日動は倒産してしまい、一旦解散。
2年後には日動映画株式会社として再建されたものの政岡さんは参加されなかった。
この再建日動が、東映に買収されて東映動画となった現在の東映アニメーション
ということになる。
したがって「桃太郎」の瀬尾さんも、東映動画の基礎を築いた熊川さんや森さんも
みな政岡さんの弟子筋ということになるから、我々初期の東映動画組もまた
政岡さんの孫弟子的な存在ということになる。
一般に初期の本邦のアニメーションに大きな影響を与えた存在としては、
まず、ディズニーが語られることが多い。
確かに当時、ディズニー作品はアニメーションとして頭抜けて素晴らしいもので、
その技術も完成度も凄いものであったからそれは別段間違った話ではない。
だが一方で、東映初期のアニメーターは美大系の出身者が多く、
中には芸大や東大で美術理論を修めてきた者もいたから、
「やぶにらみの暴君」などのフランス・ヌーベルバーグや
「雪の女王」といった共産圏映画などの芸術映画の新手法としてのアニメーションに
強い関心を寄せる者も多かった。
しかしここではっきりしておきたいのは、こうした海外のアニメーション作品と我々との関係は
単なる一観客に留まるもので、現在のように映像作品を
個人で所有したり自由に見たりすることが難しかった当時、
いくら我々が大きな感動や影響を受けたといっても、
それは映画館の熱心な観客として以上の接し方ではなかったのだ。
一方、政岡さんを中心に形成された戦前、戦中の日本のアニメーションからは
その完成作品の多くは当時、我々は見ることすらかなわなかったにもかかわらず、
その技術や方法論は熊川さんや森さんを通じて直接の継承や伝授があったのである。
そしてその内容も熊川さんの「手が動く前に目が動く」に象徴される高度なものであった。
実はずっと後年、私は晩年の政岡さんにお会いする機会を持てたことがある。
その時はまだ自分も孫弟子に当たるとは認識していなかったのだが、
業界の大先達として大変に貴重なお話を聞かせて頂くことが出来た。
独自企画の「人魚姫」(未成)の資料を手に熱心にお話されていた様子を覚えている。