イサコとともに「通路」を開いたヤサコは、暗号炉の暴走とともに気を失う。
目覚めたのは、病院の一室だった。
母親にメガネを取り上げられ、デンスケも失い、茫然自失のヤサコ。
クラスメイトたちもみんな、親や教師にメガネを奪われる。
それは、メガネが原因で意識が戻らなくなってしまった、イサコやハラケンを見れば、だれもがそうしたであろう、「保護者」として当然の行動であった。
メガネはすべてのスケープゴートにされ、こどもたちは遊び場を失くす。
なにをすればいいのかわからず、ただ、空虚な時間を過ごす小学生たち。
そんな中、ヤサコの母親は、人と触れ合うことの大切さをヤサコに示す。
本当に大切なのは、実際に手で触って、目で見て、触れ合うこと、確かな暖かさやぬくもりを感じること。
「もうメガネ遊びはお終い。退屈になったら、お母さんが遊んであげる。」
ヤサコの母はまた、大切なものを失う悲しみを、実際のペットが死んだ体験を通じて、ヤサコに教える。
「飼い主が、ペットが死ぬのを見たくないように、ペットもまた、飼い主の前で死ぬところを見られたくないの。大切なものがなくなるっていうことは、その傷や悲しみを、残った人が受け止めるってこと。」
だが、幼いヤサコには、まだどういうことなのか分からない。
ある日、本物の犬を見て、ヤサコは、デンスケが本当にいなくなってしまったことを、「実感」として知る。
そのときにあふれ出た涙こそが本当の悲しみで、母親の言ったことを少し理解するヤサコ。
「胸の辺りが痛いの・・・」
やがてヤサコは、目に見えるもの、感じるものだけを頼りに、自分を突き動かしていく。
自分の胸の痛みを信じ、イサコを救うべく、立ち上がるヤサコ。
ヤサコが向かった先は、旧友の住む町、かなざわ市。
四つのマンホール。
「はざま交差点」のある町だった・・・。
○感想
ヤサコと母親のシーンは、職場で見ていても泣けました。
犯罪が起こればなんでもゲームのせいにする最近の世の中の風潮を踏襲したかのような、メガネ没収という刀狩令。
こどもたちにとっては、あんなに熱中した遊びを理不尽な理由で大人たちに取り上げられて、やり場のない怒りを覚えた反面、虚無感に支配されたことでしょう。
しかし、そんな中にも、きちんと子供に対し接する親はいて、生きていく上での大切さ、強さみたいなものをしっかりと教え、学ばせ、こどもたちはそれを、漠然とではあるけれども、理解し、実践し、少しずつ、大人への階段を登っていきます。
その代表が、ダイチであり、ヤサコなのです。
電脳世界という擬似体験を捨て、実際の現実に戻ってきたこどもたち。
そこには、いままで感じることのなかった楽しさ、驚き、感動が待っていることでしょう。
もちろんつらいことや、悲しいこと、やりきれないこと、納得いかないことも同時に待ち受けています。
それらを知り、乗り越え、成長していくこと、それこそが子供の可能性であり、未来なのだと思います。
今回は、一児の父として、そんなことを考えました。