中央教育審議会から、このほど道徳教育の教科科目として扱うようにとの答申がなされた。いじめをはじめ若年層の様々な問題が起きていることから、この流れは確かに予想されたことだ。このことについて様々な憶測が新聞等でなされているが、戦前の「修身」との比較として扱われてるのが多いようだ。最近の若者の倫理意識の低下を危惧して、このような答申が出たのであろうことは、想像に難くない。
 この答申の内容を今日ざっと読み通してみた。本文で書かれている内容は、至極当たり前、一般市民としていわゆるシチズンシップを育成するものであるということが読み取れる。しかし、よくその中身を見ると、何度か「国を愛する」という言葉が繰り返され、ちょっと気になってしまう。これはもちろん改定教育基本法からの流れであろうが、しかし、ちょっとしつこくはないか?
 「国を愛する」ということについて少々私見を述べさせていただくと、日本人ほど自国を愛している国民はいないと考えている。なぜそれがわかるか、海外に行いくとよく目にする光景だが、日本人は、日本人以外となかなか仲間になろうとしない。日本人同士の間でくっついてしまう。団体ツアーは言うに及ばず、バックパッカーなんかで海外に出ていく日本人の中にも、宿の中で日本人同士が固まっているのが見受けられる。もちろん言葉の問題もあろうが、しかしである。海外の連中と付き合おうとしない傾向が、他の外国人よりもかなり多いように思われれてならない。(もちろんそれでも20~30年前よりはましなったと思う) そこには、日本という文化の磁場からなかなか離れなれようとしないという文化的精神的なものが根底にあるのではないだろうか。それだけ日本という国に多くの日本人は寄りかかっている姿勢が見て取れる。もちろんこれは国を愛するということとは違う問題であろうが、少なくともそのような日本人は、日本という国を体内に内在化させてるということは言えるにちがいない。
 なぜこの国の人たちは「国を愛する」という言葉に、何か腑に落ちない何ものかを感じるのか。それは、日本国内で生活している以上(9割以上の日本人はそういう環境にある)、他国という現実に触れることがないからである。隣の町は、言葉が違う国、民族が異なる人がいて、過去には、自分の肉親を含め殺されたというなまなましい体験がないからである。よく言われることだが、自己とは他者の目を通して認識され、そこで確認されたものが自己なのであり、他者の認識の存在しない自己という存在は、存在しない。すなわち、自己は他者という自分以外の何者かを通して相対化されたものとして浮き出てくるものである。国という観念もそうである。現実に他の民族や国家との肌での直接的な接触なくては、自国というものをはっきり認識できないのである。日常の生活の中で、直接的に言語の問題、宗教の問題など差異を経験することなく、自分を日本人として自覚的に認識できないのは、あたりまえなのである。国内に長く住んでいる限り、日本を現実の場面を通して、相対化できないのである。このことが、日本人の中の国家意識にねじれをもたらしている。日本人ほど日本を内在的・無意識的に愛している国民はいないと想像するのだが、そいういう国民の前で、「国を愛する」ということばが、文字として表現されると、我々はどこか日本人に内在化されてるなにかを強制的に引き出されれるようで違和感を感じるのである。
 1990年ごろに、君が代・日の丸問題が騒がれ、「国を愛する」という言葉が今回の道徳教育にも盛り込まれたのであるが、それが表現されるたびに自己撞着的な意識を醸成させ、世論や世人の感情をねじれさせてしまうのではないだろうか。
 国は、「国を愛する」という言葉を表面化させる前に、日本人独特の日本人の日本の国への意識を根底から省察すべきっではなかろうか。でなければ、この「国を愛する」という言葉は、常にある者には極右的に聞こえ、ある者には自虐的に聞こえ、常にねじれた国民感情を醸成させかねないのではないのだろうか。