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 歌劇=オペラというのは、私のような人間にはなかなか縁遠い存在というかジャンルです。音楽分野なんかに疎い私ですが、歌手というと、演歌、歌謡曲、フォークソング、シャンソンなどが思い浮かび、知っているのがロックといったところで、オペラ歌手というのは、かなりわかりにくい感じです。これは、オペラとかクラシック音楽などについて、嫌いとかそういうことではなく、単になじみがない、縁遠いということであり、そこはかとない興味や憧憬はあったと思います。

 2015年5月に、ラ・フォル・ジュネ・オ・ジャポンという催し物で、ヴィヴァルディの音楽を聞きに行き、なかなかだったので今年も行こうかなと思っておりましたが、事前の情報を十分に得られず、魅力的な祭典なんですが、ぶらりと訪れるには、ちょっと場所的に遠いし、様子見をしているうちに期限切れのように、今年=2016年は参加しませんでした。その代わりというわけではありませんが、劇場での古典的なオペラのライブ中継のようなものを映像化して映画館で上映されるMETライブビューイングというコンテンツがあるということ、すごくいいよっていうことを書いているひとがおりまして、まあ、それでオペラのライブ映像を見に行ったのであります。

 正直なところ、3時間を超える長丁場のオペラを、見続けることができるだろうか、途中で眠ってしまったりしないだろうか、心配はそこでした。ずいぶん前ですが、友達がリサイタルをするので、券を買ってほしいという人へのお付き合いで、そのときのみんなで、そのリサイタルを見に行ったとき、仕事でくたくたになっていたこともあるのですが、途中に眠ってしまったことがありました。今はその時よりもずっと体力も衰えているし・・・

 しかし、長く座っていて尻が痛くなったことはありましたが、眠くなることはなかったですね。ところどころにインタビューが挿入されていて、歌手がどういう風に演じているかなどもわかりやすくなっていたし、舞台裏の風景も見えるのに、劇場でオペラを見る臨場感も味わえ、感心しました。何よりも、きちんと演じられたオペラは、最上級のエンターテインメントであることを知りました。日本で劇場のオペラを鑑賞するのは、なかなか普通の人では難しいし、日本のオペラ劇団もあるのだろうけど、大体、私が、ライブの演劇など、何十年も前に新聞のサービス券で見に行った明治座の舞台か、あるいは、台湾の国家式典の客寄せに使われた新宿コマ劇場(今はなくなりました)くらいで、なかなかないことです。いや、その前には、高校生の時に、新劇をめざしていた友人の誘いで、新劇を見に行ったことはありました。実は、このとき以来、演劇の基本形は新劇だという先入観が形成されていたので、古典的な演劇はあまり評価していなかったなあ。たとえば、歌舞伎。これなどは、まったく、低く見ていました。

 モンタージュ理論とか、ヌーベルバーグとか、アングラ演劇とか、演劇界の新しい実験が盛んに試行されたときかな、映画はおどろきをもたらすもので、たとえば、黒沢明「七人の侍」の魅力は、場面がダイナミックに切り替わる展開で、それ以前の時代劇映画は歌舞伎調で単調な全体映像だったなんて言われたもので。どちらがいいのか。一見明白ではないでしょうか。一見だけど。

 しかし、METライブビューは舞台で演じられたオペラを映像化していますが、単調に舞台全体を遠くから撮影したものではなく、「七人の侍」ほどかどうか判断できませんが、舞台のあちこちにカメラを設置してあって、アップになったり、全体像になったりで、その点は映写技術の進歩は黒沢明の天才を包摂しているのでしょうか。

 次に、わたくしの、オペラについての私の予備知識というか、もとからの印象がどのようなものかを書かせてください。かつて、声帯模写という演芸がありまして、演者はいろいろな人の話し方をまねながら面白い話をする芸なんですが、桜井長一郎さんという人がラジオで話していたことだと思います、たぶん。この人が、椿姫というオペラのことを題材に話していたのが面白くて(多分ですが)、なんて言っていたかというと、椿姫というのは薄倖のヒロインの話で、ヒロインが最後に亡くなってしまう筋のドラマらしいのですが、オペラ作品も上演され、映画も制作されているようです。桜井さんだと思うのですが、その人が、「オペラっておかしいですよね」というのです。なぜか、薄倖の女性が病気で亡くなっているラストシーンがこのドラマのクライマックスなんですが、映画ならば、主演女優はやつれメークで、蚊の鳴くような声で「私は死ぬ(めそめそ)」などという悲しいシーン。これがオペラだとどうなるかと問い、肥えたプリマドンナが、あっこのころ日本人はみんなスマートだったんだよね、力強い声で「私は死ぬううう♪♪♪♪」なんて、豊かな音量で歌うんだといって、そのまねをしたんですが、それを聞いていた小生、その部分で爆笑して、後の展開は覚えていないほどです。これがオペラについての一つの印象だなあ。そのくせ、ミュージカル映画には違和感なかったから、これはアメリカナイズだったんだよね。

 さて、蝶々夫人という演目ですが、日本の長崎(長崎というのは実は知らなかった)を舞台にしているオペラなので、昔から、よくテレビなんかの話題に出てたなあ。そのときに紹介される歌の一節が「ある晴れた日いいい♪♪♪♪」の部分で、実はそのあとは覚えてなかったのですが、それ。

 次に、ええと、「エースをねらえ」というアニメに「お蝶夫人」というすごいキャラクターがありましたね。

 それから、もうひとつ、重要な予備知識ですが、これは黛敏郎という、クラシック音楽に詳しい、知識人のようなひとですね。タイプで言うと、村松剛、伊丹十三、なんて言うのが同類に感じる人ですが、題名のない音楽会などという番組の当初の司会者だった。この番組は結構好きで、のちに、ある友人に黛敏郎っていったら、「あの右翼?」って、顔をしかめられたことがあったものだ。この人が、あるテレビ番組で、とつぜん、西欧クラシック音楽の悪口を言い始めたんでびっくりした記憶があるですね。「西欧人は日本のことなどまったく分かっていないんだ」って。出てくる日本人キャラクターの衣装が「アンネイフク?」みたいなものを着ていると、「アンネイフク」をいかにもさげすむように。中国系の服という意味でしょうね。民族主義的で中国をさげすみたがるというのは、日本の右翼知識人の共通項だろうか。

 ほとんど西欧価値観に浸かっていて、西欧諸国の歴史的、現在進行的な蛮行、非道には違和感がないみたいで、ときどき発作のように反米的とか国粋的なことをおっしゃる知識人というのは、ひとつの類型だと思うんですよね。たとえば、アメリカのベトナム戦争とか、イラク戦争では平気でアメリカ軍を擁護するのに、突然反米的なことをたまに言う人とか。すいません、石原慎太郎なんかもその類型かな。間違ったらごめんね。とにかく、黛敏郎さんだったと思いますが、名指しではなかったけれども、あるオペラ作品を材料に、西欧人は日本のことまったく分からないからだめだと言ったんですよね。少々感情的に。でも、クラシック音楽についての黛さんの権威は絶対的ですから、この言葉は深く印象付けられたんでした。オペラの予備知識って、あまりポジティヴなものなかったです。

 METライブビューイングで、映像ではありますが、オペラ蝶々夫人を鑑賞した印象を、これまでのオペラや蝶々夫人についての予備知識がどのように納まったかに合わせて語りたいと思います。

 第一に、桜井長一郎(だとおもうのですが)のオペラ観。悲しい場面でも肥えたプリマドンナの声量豊かな歌声がマッチしているのか。蝶々夫人は、2幕のオペラで、上演時間は3時間、蝶々夫人役のソプラノ歌手クリスティーヌ・オポライスは、1幕から2幕2場まで、ほぼ出ずっぱりで、声量豊かに歌い続けていまして、体力がなければできない舞台だと思いました。蝶々夫人の悲劇を、映像効果ではなく、歌劇としての歌曲から感じることができるかどうかが問題であり、それは鑑賞力の問題かもしれないといえます。リテラシーと言いましょうか。そして、METライブビューくらいに丁寧にいろいろわかりやすく映像を作ってくれれば、何とかそれを感じることができたということで、この部分はパスできたと思います。劇場で、字幕がなく、オペラを観劇したときに、同じように理解できるかどうかは、まあ何とも言えないとしておきます。

 「ある晴れた日に」の一節。これは、なるほどでした。これが歌われるシーンは、第2幕の1場。第1幕では、アメリカの海軍士官で長崎に赴任しているピンカートンと15才の少女、蝶々さんの結婚がとりおこなわれ、二人の愛の歌で幕が閉じる。第2幕第1場は、ピンカートンの任務が終わり、すでにアメリカに帰ってから3年も過ぎて、もう帰ってこないのではないかと忠実な下女スズキに諭される蝶々さんが、ピンカートンは必ず帰ってくるといい、この一節を歌うのです。つまり、ある晴れた日に水平線の向こうにピンカートンの乗った船が現れ、だんだん、近づいてくる、そうなるに違いないという意味です。この歌の意味がすごくよくわかった。結局、蝶々さんは捨てられ、ピンカートンはアメリカで結婚して、蝶々さんとピンカートンの間に生まれた男の子は、「この子の将来のために」ということで、一時的に夫婦で日本に来たピンカートンに引き取られ、蝶々さんは「名誉ある生を得られない場合は、名誉ある死を」ということで、自殺する。確かに、黛敏郎でなくとも、腹立つストーリーではあるかな。この話は、こんな悲劇だったんだ。

 黛が言っていた、人物の服装なんかがぜんぜん日本らしくないというところは、どうだったか。第一幕の前半あたりに登場した、蝶々夫人の親戚の人たちの女性たちは、みな和服を着て、日本髪を結っておりましたが、いまいち、着付けが決まっていなかったことは事実ですね。それから、真ん中あたりの場面に出てきた、役人のような人が、丸い帽子をかぶっていたので、印象的に中国の役人の感じがありました。中国人が中国風と感じるかどうかは疑問ですが。古い西部劇で、白人の俳優が演じるインディアンが、どうも決まっていないのと同じかもしれません。

 エドガ・アラン・ポーの『モルグ街の殺人事件』という作品で、犯人の声を聴いた証人たちが、その言葉がイタリア語だった、フランス語だった、スペイン語だったと、バラバラな印象を語るという話があります。名探偵デュパンは、この現象を、それぞれの人が、自分の知らない言語を聞いたと証言しており、どの言語にも似つかしくない声だったと推理し、それが犯人がオランウータンだったこと(オランウータンが殺人なんかするはずもないけど、そこが古い小説です)を突き止めるということになります。蝶々夫人の日本人の衣装についても、日本人も、中国人も、あるいは朝鮮・韓国人もその他の東アジア人も、東アジア系の服装だけど、自分とこの服装とも思えないというような印象を持つようなものではないかという気もします。しかし、どの服装、どの文化に一番近いかと言えば、やっぱり、日本に一番近いといえるでしょう。

 衣装はさておき、このオペラは日本について、素晴らしい民族や文化として、賞賛して描いていないし、蝶々さんの悲劇の第一に責められるべきは、15歳の蝶々さんと結婚して、彼女を捨てたピンカートンの無責任さであることを認めていながら、日本の文化の非人道性にも問題があることをほのめかしている。しかし、このあたりの日本文化に対する理解、洞察は、鋭いものがあったと思います。

 で、可憐で、純粋で、美しい蝶々さんを演じたクリスティーヌ・オポライスは素晴らしく、カーテンコールでは、拍手をしたくなるできでした(恥ずかしいので、拍手はしなかったけど)。