三位一体は、ローマ帝国でキリスト教が公認された後、第一ニカイア公会議から第一コンスタンティノポリス公会議にかけて、定式化された説であり、現在のキリスト教教会の主流派がこれを共有しているという。
三位とは、父と子と聖霊。父とは唯一神エホバ、ヤハウェなどともいう神で、旧約聖書ではとても嫉妬深い、独占欲の強そうな、妬む神である。子とはイエス・キリストで、人間の罪を贖うために人間界に送られ、処刑され、復活して、昇天した。
そこで、聖霊とは。つい最近まで、この聖霊というのがよくわからずに理解していた。マリアの受胎告知は、たとえばレオナル・ド・ダ・ヴィンチもこの題材で有名な絵画を残しており、羽の生えた天使が聖母になるマリアに何かを伝えている。なお、この絵では、天使の羽について、ダ・ヴィンチが実際の鳥の羽を観察してリアルに描いているというところで、それまでの同題材の絵画にない新しさをしめしているという。
それで、この天使と聖霊が混同され、聖霊のイメージはずっと、ほとんど人生の9割くらいは、これであった。さらに、聖霊という言葉と妖精という言葉が語感的にこんがらがり、そういう超自然的なメルヘン的なものが聖霊であるとイメージしていた。
そもそも、三位一体がなぜ、意味を持つのか、キリスト教の文化にほとんど無関係に暮らしている私には、ひっ迫するもの、実感がない。自分の文化的な背景はなんだろう。たぶん、儒教であり、仏教であり、さらに、西欧の文献をかじるのは、キリスト教を最初から否定するマルクス主義などが端緒になる。三位一体の聖霊が、妖精だろうと天使だろうと何も困らないのである。
しかし、イエス・キリストの受難と復活を信仰の根拠とするキリスト教の文化にとって、これは非常に重要な問題であり、古くからこれに関して多くの議論があったのである。いわば、イエスははなんだったのかという問題である。そして、それはキリスト教における救済の意味につながる、根本的な問題なのである。
