子供のときのことだが、母と町を歩いていたことがあった。父は、仕事をするでもなくいつもいえの中にいて、といって、ひもというわけでもないようで、よく分からなかったが、気が向くと私を連れて上野公園なんかに行った。上野公園に行く途中に、石屋のような店のようなものがあり、店先に何か奇怪な石像のようなものを置いてあったのをなぜか覚えている。谷中とか、そういうところにあった店のはずだ。
しかし、母と町を歩いたことはそんなになかったのではないだろうか。母は町を当てもなく歩くような無駄なことはしなかったからだ。しかし、確かにそのときは母に連れられて、当てもなく町を歩いていて、新しく開店したような本屋さん、とても小さな本屋さんに入った。本屋さんの規模や店の様子はほとんど覚えていないが、カウンターの向こうに店主がいて、その周りに本棚が狭苦しく置かれているというようなそんな店だったと思う。そこで、母が店主(それとも店員だったろうか)に石川啄木の本があるかどうかを尋ね、啄木の歌集か詩集か、たぶん歌集だったと思うのだが、それを買った。実はその歌集は1巻、2巻と数巻に分かれた文庫本で、1巻がなかったのだが、母はそれでもかまわないからと2巻、たぶん2巻だったと思うがそれを買った。そのときから、私は石川啄木が好きになった。
小学校の国語の時間、日本語の時間というべきだろうか、そのときに、図書室で好きな本を借りて感想をいいなさいというような授業があった。図書室での本の借り方を生徒に教えて、図書室の利用を促すと言う教育目的もあったのだろうか。それで、私は石川啄木の本を選んで、そこから題材を提案することにした。それは啄木の詩集で、啄木は27歳で死んでいるので、それほど難しいことを描いているはずもないのだが、小学生の自分には何がなんだか分からない話ばかりが並んでいて感想をまとめるのに往生した。それで、自分でも分かりそうな表題の一節を選んだのが「ココアのひと匙」であった。ココアというのが飲食物で、実感を感じたからだろう。この詩、「われは知る、テロリストのかなしき心を」と始まる。最初から、どうも難解である。最後のほうに、「冷めたるココアのひと匙を啜り」とあるので、これはよくわかるのだが、ココアの話で「テロリストのかなしき心」がなぜ出てくるのか、出だしから想像もつかない展開だ。しかし、詩というのは唄のようなもので、意味など分からずに唄を歌うものだ。そこで、深く検討せずに、女の先生に、「僕はこれです」と提出したら、先生がそれを見て、しばらく黙っていて何を思っていたのだろうか、よく分からないが、「これはどういう意味なの」と私に聞いた。唄は意味など考えずにうたうものだとも言い返せず、なんとも答えられなかったので、調べることにした。図書室だから辞書があったのだ。辞書でテロリストを調べると、なにやら不穏なことが書いてある。
私が想定した内容とあまりにも食い違うので、とりあえず、テロとリストを分けて更に辞書を引くことにした。テロというのはまあ何か別の意味があるとして、リスト、いろいろ探したのだが、それらしいものがない。ドイツかどこかの作曲家にリストという人がいたということで、これではないかと思った。そんなことを先生に報告したが、どうなったのだろうか、授業のその先はよく覚えていない。しかし、啄木が注目のひいきの文学者であるという私の姿勢は、その後も変わることはなかった。今でも、啄木は好きな文学者だ。