映画関係者の言で、映画のテーマとして、子供と動物は禁じ手だというのを聞いたことがある。例によって、いつ、どこで、誰がと聞かれると、まったく答えられない。テレビなどを茫然と視聴していたときに、そういう発言を聞いたのをなんとなく覚えているだけだ。
禁じ手である理由であるが、映画人はヒットする映画を目指して作品を作る。資本主義であるかどうかにかかわらず、これは一面の真理をついている。ヒットする映画が必ずしも価値のある映画とは限らないが、価値のある映画は多くは大衆に認められるものである。
しかし、大衆が選択したものが真に価値があることが保証されているわけではない。このあたりの判断が難しいのだが、たとえば、経済学でも、市場原理主義を支持する人は、市場は基本的に最適な状態を保障するのであると考える。この理論にしたがえば、映画という作品が市場によって選択される場合、市場が受け入れた作品が価値のある作品であり、そうでない作品は価値のない作品と言うことになる。しかし、こんなのは暴論であり、大衆は価値のある作品を非常にしばしば無視するし、また、まったく価値がない作品を熱狂的に賞賛したりする。もちろん、経済学者は賢いから、こういう現象に関しても答えを残していて、たとえば時間の遅れによって、市場が即座には価値のあるものを取り上げないとしても、長期的にはその攪乱は調整されるという。しかし、ケインズの言う通り、人は長期的には皆死んでしまうものだ。
要するに、大衆が支持するものが常に価値のある映画ではないとして、そうすると本当に価値のある映画とそうでないものを見分けることを誰が行うのかが問題になる。そして、映画評論家と言う人々が居場所を得るのである。
話が迂遠になってしまったが、映画評論家が多分言ったのは、子供と動物の映画は禁じ手だというのだ。それは子供と動物はそもそも素材自体が人間を満足させる要因を備えており、映画テクニックを駆使しなくとも、ヒット作にすることができる。だから、そういう素材でヒット作を制作したとしても、そのスタッフや関係者を評価することはできないという意味なのだ。なんとなくわかったようで、突っ込めばいくらでもボロが出るような論理構成だが、一応、このテーゼを前提にして考えたい。
深夜放送で映画談議をしていて、映画に詳しい対話の相手に永六輔氏が最も感動した映画として「野生のエルザ」をあげたとき、彼は図らずもこの約束事を破っていた。このテーゼが不文律として映画関係者にどれほど認識されていたかどうかは不明だが、多分、暗黙裡に、そして無意識の前提ぐらいに、映画関係の議論の奥に共有されていたものであろう。そして、多分、永氏も、そのような雰囲気の中で映画関係者の映画談議の枠組みに対する不満を含めて、動物映画である「野生のエルザ」を提案したように思える。これは深読みかも知れないが、確かに「野生のエルザ」が批評家から酷評される最大の要因もここにある。
野生動物の記録映画の古いものとしては、ウォルト・ディズニーの作品がある。こういう映画は楽しいものだが、実際の野生動物の生態を無視して、観客が楽しめるような物語の中に動物の影像を編集したものであるという批判があり、確かにそういう面があることは否定できない。ハリウッド映画というのは多分にそういう性質を持つ。たとえば、私が大変感動した「サウンド・オブ・ミュージック」だが、このモデルになったトラップ一家の人々は、この映画を見てあまりにも作り事なので不機嫌になったという。
野生のエルザには原作があり、この原作も話題になったのだが、それに対しても厳しい批判があった。ジョイ・アダムソンはあまりにも動物を抒情的に考えて、ライオンを擬人化しているというのである。映画として大変すばらしい「野生のエルザ」には最初からそういう批判を受ける定めを負っていたのである。
では、この批判は正しいのだろうか。ウォルト・ディズニーの動物映画のような作り話に対する批判が、ジョイ・アダムソンの実体験から語られたライオンと人間の交流の話にもそのまま当てはまるのだろうか。私は、そうは思わない。
ウォルト・ディズニー式の動物映画が批判される一つの論拠として、大衆の期待に合わせて動物の世界のドラマを作成していて、そこに描かれている動物の姿は本当の姿ではないというものがある。そして、そのようないわば虚構の世界を描く理由は、観客に満足を与えて、興業的に成功させたいという不純な動機があるということになる。これについてもいろいろ議論はあるし、多くの価値ある文学は大衆の期待に合わせて虚構の世界を提供することで価値を実現してきたのであるし、そういうことにこだわると話が発散してしまうので、ここでとどめておきたい。一言、私はウォルト・ディズニー作品はおおむね素晴らしいものだと思っていることは付け加えておく。
この基準から見ても、ジョイ・アダムソンの体験談に対する同じ批判はまったく当てはまらない。ジョイ・アダムソンが子ライオンを育てて、その交流を人間的な愛情の概念で理解していたことは事実であり、また人間の愛情と言う概念がライオンの生態系における個体の持つ価値観と完全には一致しないことも事実である。しかし、このことは、ジョイ・アダムソンのライオン観察の目が他のなんらかの資格や訓練を受けた学者のような人々の知識よりも事実認識において劣っていたという結論にはまったく結びつかない。彼女はライオンを擬人化してとらえることを批判されたというが、その批判していた人たちがどの程度ライオンと言う動物を生態系、身体の構造、行動様式、そして個体の持つ感情について、認識していたのかを考えると、それは非常に不完全である意味で偏見を帯びたものだったと思われる。むしろ、ライオンの本当の姿は、自然界の認識を含めて、人間界と野生動物の実際の交流を通して、深まっていったのであり、それを行ったのはアダムソン夫妻だったのである。彼らは、エルザを感染症で死なせた後に、飼育下で育ったライオンを野生に復帰させるプロジェクトを立ち上げ、そのためにさらにライオンの生態を学んでいく。そういう活動なしに、本当のライオンの姿を知ることは誰にもできないのである。