夜、ヨーガのクラスを開催しているとき、

参加者さんに寂しさや怒りを抱くことがある。

クラスを軽く扱われる言動だったり、連絡なく何日も休んだり。

私がどんな想いでクラスを開催しているか・・・

と寂しくなるときがある。

 

 

でも、私がどれだけ辛い中クラスを準備をしていたとしても、

参加者さんがどんな態度で参加するかは全く関係のないのだ。

その人がどんな風にクラスを思っているかは、

私は強制することではないし、強制できない。

 


自分を認められないセンスから、

「これだけやっているから、応えてほしい、認めてほしい」という気持ちがあって、

それを押し付けているんだな、と気付かされる。

それでは、全く結果を明け渡せてない。

クラスという場所を使って、自分のエゴを押し付けているだけだ。

ある日、私はヨーガを教えているつもりが、

エゴを教えているのではないか?とハッとした時があった。

それからは、いつもクラスが儀式になりますように、

エゴの満たすものになりませんように、と祈るようになった。

 

 


まずは色んな環境の中にいる参加者さんのその時の気持ちに寄り添って、

話を聞く人でありたい。

人の内側の痛みに寄り添う人でありたい。

その痛みが怒りや拒絶の形だったとしても。

まずは、その人がそうであることを、ただただ受け入れる。

みんながどんな状況であったとしても、結果に執着せず、

私は私のすべきことをしつづけたい。
 

 

理想を追い求めているんじゃない。

習性の許す範囲で、やりくりする繰り返しに、

もう、うんざりしているのです。

もう、いい。