天国へ届け 『きまぐれ☆オレンジロード』他 ジャンプラブコメ路線の巨匠 まつもと泉さん死去 | 20世紀漫画少年記

20世紀漫画少年記

漫画・漫画家の評論、批評、検証など漫画に関することならなんでもやります!

 

 

 10月13日、『きまぐれ☆オレンジロード』で知られる漫画家のまつもと泉(本名・寺嶋 一弥)さんが、10月6日に死去したことが公式サイトのブログで明らかになった。享年61歳だった。

 

 

 まつもとさんは1958年10月13日、富山県高岡市生まれ。高校卒業後にロックミュージシャンを目指すため上京するも、ミュージシャンは断念しデザイン専門学校に入学。

 

 専門学校在学中、高校時代の友人と2人で漫画作品を執筆。「まつもと泉」のペンネームは、当初は「藤子不二夫」や「ゆでたまご」のようなコンビ名としてつけたものだった。友人と各出版社に持ち込みをし、集英社「週刊少年ジャンプ」の編集部員・高橋俊昌氏に認められ、漫画家への道を歩み出した。

  

 1981年、「LIVE! とってもロックンロール」で週刊少年ジャンプのフレッシュジャンプ賞佳作入選。

 

 1982年、「フレッシュジャンプ」に掲載された『ミルク☆レポート』で正式デビュー。

 

 まつもとさんがデビューした80年代初頭の「週刊少年ジャンプ」では「友情」「努力」「勝利」をスローガンに熱血・スポーツ・ギャグ漫画で少年誌の人気を独占していたが、「ラブコメ」路線では他誌に遅れをとっていた。その為、ちば拓(本名・板倉義一・2016年12月12日死去)氏のサッカー漫画にラブコメ要素を主体にした「キックオフ」を連載を開始。1981年には「すすめ!パイレーツ」でポップな絵柄と新感覚のギャグで人気だった江口寿史氏の「ストップ!ひばりくん!」を連載するなど、ジャンプにもラブコメ路線を導入する方向で模索していた。そういった時期にラブコメ路線に合致するまつもと氏の絵柄はジャンプ編集部に気に入られ、初代担当編集者となった高橋俊昌氏とともに、連載に向け打ち合わせを重ねながら、デビューへの準備を進めていた。デビューまでの間はたびたび原稿を落としていた「ストップ!ひばりくん!」の穴埋めの短編漫画を描いたり、懸賞ページのイラストを描いていた。余談ではあるがWikiによるとユニットとして組んでいた友人は「連載デビューまでの年間のギャラが数万円という経済状況に耐えきれず脱落」したということ。

 

 そして1984年、週刊少年ジャンプ本誌において『きまぐれ☆オレンジロード』を連載開始。同作品はそれまでのジャンプになかった絵柄に加え、トーンを多用し効果的に使った手法と当時はまだ珍しかったカラースクリーントーンを多用したアーティスト性の高いカラーイラストが注目を集めた。連載開始後、主に10代の読者を中心に読者の人気を集め、あっという間にジャンプの看板作品となった。当時のジャンプは「ドラゴンボール」を筆頭に「北斗の拳」「キャプテン翼」「キン肉マン」「シティハンター」「ハイスクール奇面組」「聖闘士星矢」「ウイングマン」など、レジェンド級の作品が軒並み名を連ねており、それらの作品と共に瞬く間に看板作品となったのは驚愕に値する。

 

 連載開始から3年後の1987年に日本テレビ系でTVアニメ化。アニメも瞬く間に大ヒット作品となり、同作品のヒロインでもある鮎川まどかはアニメファンからも圧倒的な支持を集め、1987年の「アニメディア」(学研)の女性キャラ人気投票でも1位となり、「アニメージュ」(徳間書店)の「第10回(1988年)アニメグランプリ」女性キャラクター部門でも1位となった。また本格的なアーチストを起用した主題歌の「NIGHT OF SUMMERSIDE」(池田政典)は80年代後半のアニメ主題歌を代表する「神曲」として今も称えるファンは多い。TVアニメのヒット以降、OVA、劇場版と多く作られ、いずれもヒット作品となった。特にOVAのヒットはビデオ主流になっていこうとするアニメ界の潮流と相まって、その後の他作品の漫画やTVアニメのOVA化ブームにつながっていった。

 

 『きまぐれ☆オレンジロード』連載終了後の1988年、「スーパージャンプ」初月刊号からもう一つの代表作ともいえる『せさみ☆すとりーと』を連載。人気はあったが残念ながら連載は休載したまま終了となった。

 

1993年竹書房「コミックガンマ」新年号から大島らいた原作『BLACK MOON』の作画を担当。

 

1994年「ジャンプJブックス」で寺田憲史との共同原作で小説『新きまぐれオレンジ☆ロード』を制作。

 

1996年」東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)と共同でデジタルコミックCD-ROMマガジン『COMIC ON』を発売。プロデュース業と作家陣の一人二役を兼ねる。以降、紙媒体の雑誌からデジタル・メディアでのマンガ制作に発表の場を移した。これは現在では当たり前になったデジタルコミックの走りと言える。

 

 2000年初めから「スーパージャンプ」で数年ぶりの新連載の予定だったが、原因不明の体調不良により延期となった。

 

 2004年、上記の病気が4歳の時に遭った交通事故が原因の脳脊髄液減少症(低髄液圧症候群)であったことが判明(まつもと氏の姉が脳脊髄液減少症という病名と症状を知った時、「弟の症状と同じ」と思ったため、病院で受診するよう勧め、その検査の結果、病名が判明した)。効果があると言われているブラット・パッチ(硬膜外自家血注入)治療を受けたことにより以前より体調は改善された。その後は「脳脊髄液減少症」を伝えるために闘病生活を基にした自伝的な書き下し漫画の準備を進めていた(達成はできなかった)。

 

 その後はカラーイラスト集「GRAPHIC ANTHOLOGY」、短編集「DIGITAL SHORT CONTENTS」を発表し、講演や公式サイトや公式ブログ等に活動の場を移した。

 

 2015年、公式ブログ「サイキンのまつもと」において心房細動の持病を持っていることを明らかにし、4月3日より8日まで入院して手術を行った。

 翌2016年、同年4月末に駅で男性とぶつかり頭部を強打し、脳脊髄液減少症が再発したこと、3ヶ月間寝たきりの状態で自宅療養をしていたことを同じく公式ブログで明らかにした。「PCなどを操作することが困難であるため暫くはそれらには触れず治療に専念する」と告白。その後は公式ブログもあまり更新されなかった。

 

 2017年11月19日、アニメ『きまぐれ☆オレンジロード』で鮎川まどか役を演じ、公私ともに親交のあった声優の鶴ひろみさんが同年11月16日に死去したことに対し、療養中の身を押して追悼のコメントを自身の公式ブログにて「鶴ひろみ逝く」を掲載。

 

 2018年10月1日、1年1ヶ月ぶりにブログを更新。2年に及ぶ闘病生活を経て活動再開を宣言。

 

 しかし

 

 今年 2020年10月6日、入院療養中であった病院で死去。

 

 享年61歳。

 

 公式ブログ「サイキンのまつもと」によれば「脳脊髄液減少症による不定愁訴に苦しみながらも仕事復帰への意欲に燃えて闘病を続けてまいりましたが数年前に手術をした心臓にも不安を抱えており、残念ながら身体が保たなかったようです。ただ医師によりますと、苦しむことなく睡眠中にそのまま安らかに旅立ったとのことでした」という。

 

 葬儀は近親者のみで執り行なわれた。

 

 私事になるが、私が小学生から中学生になる頃のちょうど思春期になる時期に『きまぐれ☆オレンジロード』の連載がはじまった。連載がはじまった1984年はラブコメは熱血モノと同様にすでに古臭いものになりかけていた時期だった。だが『きまぐれ☆オレンジロード』はそんな古臭くなっていたラブコメというジャンルに大きな風穴を開けた。80年代の最先端をいっていたそのポップな絵柄と、シリアスな場面でも決して「愛憎渦巻く」といったドロドロとした暗いものにはならないその作風。だからこそ当時の10代の少年少女たちに受け入れられたのだろう。

 

 『きまぐれ☆オレンジロード』ヒット以降、まつもと氏の絵柄はアシスタントだった萩原一至氏や岡崎武士氏をはじめとして後進の漫画家たちに多大な影響を与えた。

 

 ヒロインであり、まつもと氏のお気に入りだった「鮎川まどか」は現在で言う「ツンデレ」の元祖であり、当時の読者で「鮎川まどかが初恋だった」と言うファンは今も多い。『きまぐれ☆オレンジロード』は現在の漫画界の主流でもある「美少女路線」のはしりでもあった。

 

 そして『きまぐれ☆オレンジロード』の成功がその後の「いちご100%」(河下水希)、「.ニセコイ」(古味直志)、現在の「ぼくたちは勉強ができない」(筒井大志)等のジャンプ・ラブコメ路線の定着と成功に繋がっていった。

 

 まつもと氏の訃報を聞いたとき、私は驚きと共に「ついにこの世代の作家が亡くなるようになったか」と悲しくなった。闘病中だったとは言え、あまりにも早すぎる死だった。

 

 しかし、まつもと氏が漫画界に与えた影響は漫画というジャンルが続く限り、氏の功績と共にこれからも多くの人達の胸に生き続けることだろう。

 

 80年代に青春を過ごした者たちの思い出と共に。

 

 謹んでご冥福をお祈りいたします。