泥棒を生業とする男は新たなカモを物色する。父に自殺された青年は神に憧れる。女性カウンセラーは不倫相手との再婚を企む。職を失い家族に見捨てられた男は野良犬を拾う。幕間には歩くバラバラ死体登場。
並走するいくつもの物語と、交錯する彼らの人生、その果てに待つ意外な未来。不思議な人物、機知に富む会話、先の読めない展開。巧緻な騙し絵のごとき現代の寓話の幕が今あがる。
表紙を開くと、まずエッシャーの有名な騙し絵が目に飛び込んでくる。
さてこれは何の意味があるのだろう、と思いながら読み進める。
伊坂幸太郎の語り口は、的確な比喩と引用、そして洒脱な文章が特徴である。
最初はちょっと鼻につく感じもあるが、慣れてしまうとこれもまた病みつきになる。
その独特の軽快なテンポで物語は進行していくわけだが、そこには主に五つの視点が存在する。
ひとつは「拝金主義者の画商戸田とそのお抱え画家である志奈子」、
ふたつめは「プロの泥棒黒澤とその友人で元画商の佐々岡」、
みっつめは「新興宗教の指導役塚本と信者の河原崎」、
よっつめは「互いの配偶者を殺害する計画を練る精神科医の京子とサッカー選手の青山」、
そしていつつめは「四十社連続で不採用の目にあっている失業者の豊田」。
この五つの物語はストーリー的には何の関係もない。
それぞれがまったく独立した物語のように読める。
ただ、時折、絶妙に物語はリンクしていく。
それは物語に関係ないほんのささやかなすれ違いだったり、
彼らの運命を激しく動かすような大いなる接触だったり、
とにかくいろんな局面ですべての登場人物が複雑に交錯していくのだ。
この登場人物たちの交錯はただ単純に絡み合っているわけではないことが、
物語の中盤以降、明らかになっていく。
エッシャーの騙し絵が冒頭に掲載されていた意味が途中でわかって、僕は読みながらつい顔が緩んでしまった。
物語自体に特に何の謎があるわけでもない。
だけど、これはこれで十分にミステリの範疇に入れてもいいよな、と思った。
物語の構成自体に緻密な計算があり、そして「一枚の壮大な騙し絵」が完成する。
面白いなあ、とつい感心してしまった。
この物語を手に取る人にはできれば紙とペンを用意して、
登場人物たちの接点を細かく書き出してみることをお薦めしたい。
そこにはきっとエッシャーの絵と見紛うばかりのタイムテーブルが描かれることだろうと思う。
「世の中にはルートばかりが溢れている、とね。そう言ったよ。人生という道には、標識と地図ばかりがあるのだ、と。道をはずれるための道まである。森に入っても標識は立っている。自分を見詰め直すために旅に出るのであれば、そのための本だってある。浮浪者になるためのルートだって用意されている」