安政五年、井伊直弼に謀られ、南津和野藩士51人と、美しく才気溢れる姫が脱出不可能な山頂に幽閉された。
直弼の要求は姫の「心」。与えられた時間は一ヶ月。
刀を奪われ、逃げ道を塞がれた男たちは密かに穴を掘り始めたが、極限状態での作業は困難を極める……。
冒頭、若かりし日の井伊直弼が登場する。
不遇な状況に置かれた彼は、美しい姫に一目ぼれするものの、
言葉をかわすことすら許されず、かえって屈辱を味わう羽目に。
井伊直弼と言えば、諸外国との条約を勅許なしでで結んだ上、安政の大獄を強行した大老。
その独断専行ぶりは辣腕と言えないこともないけれど、僕の印象は「独裁者」でした。
歴史上の人物を現代の価値基準と今ある結果に照らして評価するのは大変危険だし、
意味がないことは百も承知しています。
ただ、それをわかった上で単純なイメージで井伊直弼について語るならば、
僕は彼をいわゆる「悪役」として捉えていました。
特に、憂国の士であった吉田松陰を害したことには大変憤っています。
けれど、この小説の導入部を読むと、心ならずも直弼に同情してしまいますね。
叶わぬことと知りながらも唯一、口にした願い。
それほどに強かった直弼の想いは無惨に踏みにじられます。
ああ、可哀相な直弼。
これは彼が姫を連れて駆け落ちのような大脱走をする話なのかな…と想像して読み進めました。
井伊直弼を「ショーシャンクの空に」のようなヒーローに仕立て上げるとは、
なかなか稀有な物語だのう…なんて思いながら。
(「ショーシャンクの空に」は大好きな映画なんです)
ところが、さにあらず。
井伊直弼はこの物語でも僕のイメージ通りの大悪人でした。
大脱走を敢行するのは、井伊直弼が愛した美蝶姫の忘れ形見、美雪と南津和野藩士51名。
周囲は切りたった崖になっている上、鈴の警報装置付きの竹矢来に囲まれ、
銃を構えた彦根藩士が彼らを狙っている。
脇差すら奪われて丸腰にさせられた彼らは美雪姫と会うことすら許されない。
状況が困難なら困難であるほど、脱走の物語は面白いものになるけれど、
それにしてもこれはやり過ぎではないの?
どう考えても脱出は不可能ではないかなあ。
でも彼らはその困難を乗り越え、命懸けで姫を逃がすことに腐心する。
剣を振るい、武を競うだけが武士ではない。
恥辱に耐え、泥にまみれようとも己が信念を貫き通すのもまた武士。
そういう意味において、彼らは、本物の武士でした。
土を掘ることしか能のない黒鍬衆たちも同様。
最後は桜庭の奇想天外のアイディアと、
美雪姫の機転で彼らは脱出に成功するわけですが、
本当の意味で彼らを脱出せしめたのは彼らの「武士としての一念」でしょう。
唯一の犠牲者となった鮫島もしかり。
彼の魂も間違いなく、美雪姫を護り、ともに山を下りたのに違いありません。
主人公たちは正義のヒーローとして、
悪役たちはどこまでも悪役らしく、
善悪のキャラクターがしっかりと描かれ、
主人公たちと共にハラハラドキドキできる極上のエンターテインメント作品だと思います。