文久三年八月。「みぶろ」と呼ばれる壬生浪士組では、近藤勇ら試衛館派と、芹沢鴨率いる水戸派が対立を深めていた。
土方歳三を慕う島原の芸妓・糸里は、姉のような存在であった輪違屋の音羽太夫を芹沢に殺されたことで、浪士たちの内部抗争に巻き込まれていく。
新撰組の「闇」の部分、芹沢鴨暗殺事件の真実に迫る時代劇サスペンス。
ずいぶん前に、テレビドラマになりましたね。
糸里を上戸彩さん、土方歳三を伊藤秀明さんが演じていてちょっと違和感がありましたが、
(二人ともかなり現代的な俳優さんなので)
話そのものはとても興味深かく、それがきっかけでこの本を読んだのを覚えています。
輪違屋の糸里、
桔梗屋の吉栄、
この二人の天神の名は鈴木亨さんの「新撰組100話」(中公文庫)で読んで知っていました。
芹沢鴨暗殺の日、彼女たちがまさにその現場に居合わせたことも。
糸里、吉栄のその後がどうなったかはさておき、
少なくともその場で惨殺されたわけでないことは歴史的事実です。
「新撰組100話」を読んだときは、なんとも思いませんでしたが、
実はこれってものすごいミステリーじゃないでしょうか。
芹沢と寝床を共にしていたお梅は、土方らに斬られています。
命の助かった平間と共にいた糸里はともかく、
芹沢同様に暗殺された平山と一緒にいた吉栄が無事でいるのは、はたしてどういうことなのでしょう。
下の隊士らにすら漏らさぬように、秘密裡に事を運んだ土方たちにしては、
事件現場を目撃した彼女たちを生かしておくのはあまりに不手際。
お梅を叩き斬っているのだから、
よもや「女は斬らぬ」などという戯言を吐いたというわけでもないはずです。
このミステリーに対するひとつの回答がこの小説ですね。
「新撰組100話」によれば、
「平間が薩摩浪士の斬り込みかと思い、刀に手を伸ばしかけると、枕を並べていた糸里がヒシと握って放さなかった」そうです。
このあたりも、本作を読んだ後であれば、なるほどと頷けるものがあります。
さて、本作はそういった歴史ミステリとしての楽しみ方以外にも、
純然たる時代小説、または恋愛小説としても十分に読み応えがある作品に仕上がっていると思います。
この物語は、糸里をはじめ、吉栄やお勝、おまさら、多くは女性の視点から描かれています。
そして女性の目を通すと、いかにも新撰組という存在は滑稽なものに見えるものですね。
ひとしなみの世間知もなく、
ただただ武士というものに憧れて多摩の田舎からやって来たおのぼりさんのように思えてしまいます。
土方歳三という男は、鬼のような冷徹さと事を成す為にはどんな犠牲もいとわない狡猾さを兼ね備えた恐ろしい男ですが、
彼もまたやはり、所詮は多摩の田舎の百姓でしかないのだと、
女性の目を通してしまえば、思い知らされます。
新撰組は、音羽の、吉栄の、お梅の、そして糸里の「おなごたちの夢」を足蹴にしてあほうで手前勝手な夢を追い続けました。
それは彼らが男だから許されることですね。
何もかもかなぐり捨てて、ただ自分の望む道を行くということが――たとえ叶わぬにせよ――どれほど仕合せなことか、男はわかっていないのだとつくづく実感しました。
だから、糸里は好いた男の口から吐かれた最後の言葉を、
未練ひとつ残さず、断ち切ってみせました。
お前はわたしたちの夢を踏み台にして登っていこうとしているのだから、
ここで逃げるなんて許さないし、わたしもまた逃げたくはない。
わたしはわたしの道を行く。
だから、あなたもあなたの士道を行きなさい。
糸里がそんな風に言っているように、僕には思えました。
さて、この後、新撰組は池田屋の事件で一躍、その名を挙げ、
しかしついには幕府とともにその名も命も散らしていくことになります。
土方が言うように、殿様から禄を貰うことが「武士」であるならば、彼らは武士になれたのでしょう。
だが、僕には彼らが彼らの望む立派な「武士」になれたようには思えません。
新撰組は、ただ時代を迷走し、そして散っていっただけのように感じます。
いつの時代も女性は強く、男はその掌の上で遊んでいるようなものです。
その強さは、沖田や永倉の剣ですら敵わぬほどです。
彼女たちは歴史の表舞台には決して出ては来ないけれど、
でも確かにこの動乱の時代において、地に足をつけてしっかりと立っていたのです。
その姿は、きっと剣を構えた男たちにも負けないくらいに凛として格好良かったに違いありません。
「(前略)わけものうおなごを斬るのは、おなごがおとろしいからや。あんたはんはお侍やない。おなごと一緒に、田畑を耕してきたお百姓やから、おなごがおとろしうてかなんのやろ。どや、土方はん。物が言えるなら、言うてみい。言えへんのやな。言えへんさけ、刀に物言わそとしてるのやな」