次に、文化論⑵のエトスについてお話しします。
今回も結論から申し上げますが、
今回も非常識な真実になります。
日本人の資本主義的エトスと、
フィリピン人の共同体的エトスは全く異なり、
両者は、互いに交わらず根本的にすれ違います。
日本人は物の扱い方は上手いが人の扱い方が下手です。
フィリピン人は逆に人の扱いは上手いが物は下手です。
日本人の個人主義とフィリピン人の家族主義。
個人の幸せの日本人と家族の幸せのフィリピン人。
労働や生活や夢や生命までも商品化された、
個人消費を原理とする高度商品社会の日本人と、
家族と共同消費を原理とする伝統社会のフィリピン人。
この差は、どうして生まれたのか。
日本人は、近代化を達成した近代人、工業人、科学人。
フィリピン人は、前近代の未近代人、農業人、宗教人。
異なった原理と価値観の二つの民族が交わることは可能か。
基本的な一致は出来ないなら、コラボレーションは可能か。
もし不可能ならば、諦めてフィリピンから撤退するか。
或いは、フィリピンが近代化されるまで何百年も待つのか。
しかし我々にはそんなに時間が無いのです。
では、どんな方法が残されているのか。
それをお話しする前に、
私がかつて犯した誤りについてお話しします。
私 が最初にフィリピン人に会ったのは横浜のスナックでドレスを着てハイヒールを履いたお姫様のスタイルでした。その第一印象で私は完全にフィリピン人を同じ 都会人と見誤りました。その後、長い間多くのフィリピン人と会いながら常に違和感を感じていましたが、その正体が何なのか分からないで来ました。その正体 にやっと気が付いたのは実に30年近く経ってからのことでした。
私の犯した誤りとは、
エトスが単に個人の努力や学習で変われると思ったことです。
歴史を眺めると、
日本人とフィリピン人との最初の出会いは、
今を遡ることはるか 400年以上前でした。
私が生まれた堺の豪商呂宋(ルソン)助左衛門が、
ルソンに渡海し貿易商を営んだのは安土桃山時代です。
この時代は、日本は封建主義を建て前とする武家国家であり、
フィリピンはスペイン植民地となり世界交易する農業国家でした。
そして、両国は共に共同体原理をエトスとする社会でした。
し かし日本は、その後関ヶ原の戦いを経て徳川の世となり鎖国で元禄文化を開花させた江戸時代から黒船の来航に目覚めて明治維新を経て西欧に学び天皇一神教を 創り上げてひたすら近代化の道をまっしぐらに走って、アジアで唯一の西欧に肩を並べる近代国家にまで発展した。西洋と戦った太平洋戦争ではアジア各国に大 変な厄災をもたらしたが、敗戦後の日本は日米同盟の下で世界第二の経済大国にまで成長した。その間の社会経済の大変革によって日本人は共同体と伝統に支配 された性格から個人を原理とする高度な資本主義的なエトスに変化しました。
一方フィリピンは、この間も以前と同じ共同体と伝統に支配されたままであり大きなエトスの変化は起きなかったのです。
つまり、フィリピン人の心性は400年前から変化ないのです。
実に、私はこのことに気が付かなかったのです。
同様にまた、気が付いていない日本人がほとんどです。
ター ザンやブッシュマンが都会に来ても生活技術なら教えればさほど苦労なく真似られます。チンパンジーもボタンを押してバナナを手に入れることは覚えます。し かし、外見からでは頭の中は分からないのです。以前としてサルの本能はサルのままです。フィリピン人の場合も全く同じなのです。残念ながら、生活を真似る だけで近代化のエトスが達成できることはありません。フィリピン人は服装や生活を変えて近代人になったつもりですが、また、世界経済の影響を受けて商品経 済が発達して暮らしが近代風に変わって都市では近代的な生活スタイルを取り入れていますが、実は、その心性は農村共同体のエトスそのものです。例えば、安 土桃山時代当時のフィリピンの原住民が当時の服装を現代風のスーツやドレスに着替えて歩いているだけだと思えば良く分かります。もっと分かりやすく言え ば、フィリピン人はドレスを着たサルなのです。(注:サルという言葉は人間を貶めたのでもサルを侮ったのでもありません。日本人は羽織袴を着たサルと言え ます。ヒトはパンツを履いたサルという説もあります。)
長い間私は善意と思い込んで善意を誤って来ました。私はフィリピン人の心性を良く 理解しないで、フィリピン人に対して日本人の価値観である近代化を人類の進歩とする価値観の押し売りを行ない、アジアで唯一近代化を成し遂げた日本文化の 優位性を押し付け、それに対して十分感謝しないフィリピン人に呆れ、蔑み、憐れみ、同情し、絶望して来ました。
しかしながら、
フィリピン人が求めていたのは実は、
近代化でも工業化でも合理化でもなく、
ましてエトスの変更でも無かったのです。
それでは、フィリピン人は何を求めていたのか。
彼らは単に今日食べるパンがほしかったのです。
このように、
日本人とフィリピン人は基本的な一致は出来ないならば、
では、コラボレーションすることは可能なのでしょうか。
これだけ両国の国際交流が進んでいる中で、
互いに色々な不協和音は残しながらも、
共存・共栄・共生できる道はあるのでしょうか?
その実効的な方法とは次のとおりです。
⒈互いのエトスの違いを認める
⒉日本のエトスを押し付けない
⒊エトスが違うと別人と考える
⒋文化抜きで物や金は与えない
最後に日本人が外国人としてフィリピンに住んだ場合に、
こ の国に対して日本の価値や文化を広めて日本が勝利することは目標ではあり得ません。勝つことは不可能であるしまた、勝っても意味ないからです。しかし、日 本人はこの国に住んだ場合に自らの文化・伝統・道徳・習慣を捨てて白旗を上げて負けるわけには行きません。従って、勝たないまでも「負けない戦略」が必要 なのです。そうして、自分の矜恃を見失わず「負けない戦略」で頑張っていると、やがて百年後かに、もしこの国が近代化を成し遂げて社会のエトスが変わった ならば、その時に我々は勝利するでしょう。
次回は、この理想郷プロジェクトの最終章「楽園論」をお話しします。
そこでも非常識な真実が示される予定です。
今回も結論から申し上げますが、
今回も非常識な真実になります。
日本人の資本主義的エトスと、
フィリピン人の共同体的エトスは全く異なり、
両者は、互いに交わらず根本的にすれ違います。
日本人は物の扱い方は上手いが人の扱い方が下手です。
フィリピン人は逆に人の扱いは上手いが物は下手です。
日本人の個人主義とフィリピン人の家族主義。
個人の幸せの日本人と家族の幸せのフィリピン人。
労働や生活や夢や生命までも商品化された、
個人消費を原理とする高度商品社会の日本人と、
家族と共同消費を原理とする伝統社会のフィリピン人。
この差は、どうして生まれたのか。
日本人は、近代化を達成した近代人、工業人、科学人。
フィリピン人は、前近代の未近代人、農業人、宗教人。
異なった原理と価値観の二つの民族が交わることは可能か。
基本的な一致は出来ないなら、コラボレーションは可能か。
もし不可能ならば、諦めてフィリピンから撤退するか。
或いは、フィリピンが近代化されるまで何百年も待つのか。
しかし我々にはそんなに時間が無いのです。
では、どんな方法が残されているのか。
それをお話しする前に、
私がかつて犯した誤りについてお話しします。
私 が最初にフィリピン人に会ったのは横浜のスナックでドレスを着てハイヒールを履いたお姫様のスタイルでした。その第一印象で私は完全にフィリピン人を同じ 都会人と見誤りました。その後、長い間多くのフィリピン人と会いながら常に違和感を感じていましたが、その正体が何なのか分からないで来ました。その正体 にやっと気が付いたのは実に30年近く経ってからのことでした。
私の犯した誤りとは、
エトスが単に個人の努力や学習で変われると思ったことです。
歴史を眺めると、
日本人とフィリピン人との最初の出会いは、
今を遡ることはるか 400年以上前でした。
私が生まれた堺の豪商呂宋(ルソン)助左衛門が、
ルソンに渡海し貿易商を営んだのは安土桃山時代です。
この時代は、日本は封建主義を建て前とする武家国家であり、
フィリピンはスペイン植民地となり世界交易する農業国家でした。
そして、両国は共に共同体原理をエトスとする社会でした。
し かし日本は、その後関ヶ原の戦いを経て徳川の世となり鎖国で元禄文化を開花させた江戸時代から黒船の来航に目覚めて明治維新を経て西欧に学び天皇一神教を 創り上げてひたすら近代化の道をまっしぐらに走って、アジアで唯一の西欧に肩を並べる近代国家にまで発展した。西洋と戦った太平洋戦争ではアジア各国に大 変な厄災をもたらしたが、敗戦後の日本は日米同盟の下で世界第二の経済大国にまで成長した。その間の社会経済の大変革によって日本人は共同体と伝統に支配 された性格から個人を原理とする高度な資本主義的なエトスに変化しました。
一方フィリピンは、この間も以前と同じ共同体と伝統に支配されたままであり大きなエトスの変化は起きなかったのです。
つまり、フィリピン人の心性は400年前から変化ないのです。
実に、私はこのことに気が付かなかったのです。
同様にまた、気が付いていない日本人がほとんどです。
ター ザンやブッシュマンが都会に来ても生活技術なら教えればさほど苦労なく真似られます。チンパンジーもボタンを押してバナナを手に入れることは覚えます。し かし、外見からでは頭の中は分からないのです。以前としてサルの本能はサルのままです。フィリピン人の場合も全く同じなのです。残念ながら、生活を真似る だけで近代化のエトスが達成できることはありません。フィリピン人は服装や生活を変えて近代人になったつもりですが、また、世界経済の影響を受けて商品経 済が発達して暮らしが近代風に変わって都市では近代的な生活スタイルを取り入れていますが、実は、その心性は農村共同体のエトスそのものです。例えば、安 土桃山時代当時のフィリピンの原住民が当時の服装を現代風のスーツやドレスに着替えて歩いているだけだと思えば良く分かります。もっと分かりやすく言え ば、フィリピン人はドレスを着たサルなのです。(注:サルという言葉は人間を貶めたのでもサルを侮ったのでもありません。日本人は羽織袴を着たサルと言え ます。ヒトはパンツを履いたサルという説もあります。)
長い間私は善意と思い込んで善意を誤って来ました。私はフィリピン人の心性を良く 理解しないで、フィリピン人に対して日本人の価値観である近代化を人類の進歩とする価値観の押し売りを行ない、アジアで唯一近代化を成し遂げた日本文化の 優位性を押し付け、それに対して十分感謝しないフィリピン人に呆れ、蔑み、憐れみ、同情し、絶望して来ました。
しかしながら、
フィリピン人が求めていたのは実は、
近代化でも工業化でも合理化でもなく、
ましてエトスの変更でも無かったのです。
それでは、フィリピン人は何を求めていたのか。
彼らは単に今日食べるパンがほしかったのです。
このように、
日本人とフィリピン人は基本的な一致は出来ないならば、
では、コラボレーションすることは可能なのでしょうか。
これだけ両国の国際交流が進んでいる中で、
互いに色々な不協和音は残しながらも、
共存・共栄・共生できる道はあるのでしょうか?
その実効的な方法とは次のとおりです。
⒈互いのエトスの違いを認める
⒉日本のエトスを押し付けない
⒊エトスが違うと別人と考える
⒋文化抜きで物や金は与えない
最後に日本人が外国人としてフィリピンに住んだ場合に、
こ の国に対して日本の価値や文化を広めて日本が勝利することは目標ではあり得ません。勝つことは不可能であるしまた、勝っても意味ないからです。しかし、日 本人はこの国に住んだ場合に自らの文化・伝統・道徳・習慣を捨てて白旗を上げて負けるわけには行きません。従って、勝たないまでも「負けない戦略」が必要 なのです。そうして、自分の矜恃を見失わず「負けない戦略」で頑張っていると、やがて百年後かに、もしこの国が近代化を成し遂げて社会のエトスが変わった ならば、その時に我々は勝利するでしょう。
次回は、この理想郷プロジェクトの最終章「楽園論」をお話しします。
そこでも非常識な真実が示される予定です。