鈴木宅に泊まった翌日より、西へ500mほど行った先にある養泉寺で、芭蕉たちは英気を養います。
養泉寺の今と昔。東叡山寛永寺の直系の寺で、維新前までは相当の収入もあり、たいへん格式の高い寺だったとか。開基である慈覚大師(円仁)は、この後芭蕉が向かうことになる山形市の山寺(立石寺)も開山しています。
寺の大修理がおこなわれた翌年に芭蕉が訪れているので、真新しい木の香りと入り込む涼しい風とでとても居心地が良かったようですね。ただし、明治28年に火災が起きているので、当時の面影はないようです。
「「いらっしゃ~い」」 なんとも素敵なポージングで出迎えてくれました。
正面に「本堂」、左手に「井戸」、右手に「覆(おおい)堂」が見えます。
1762年に建てられたこの覆堂は『涼し塚』と呼ばれ、
「芭蕉句碑」(左)と、「壺中居士(こちゅうこじ)」(右)と刻まれた碑があります。
「涼しさを 我が宿にして ねまる也」 ~芭蕉~
「ねまる」とは、横になる、くつろぐという意味の方言。
この養泉寺に芭蕉は7泊します。地元の俳人たちとの交流を、日夜楽しんだようです。
裏側より。「壺中居士」は地元の俳人で、立石寺の『せみ塚』を建てた人でもあるとか。やはり山寺とは縁が深い……。
壺中の句にも、「寺の名は 泉もそこに すずみ塚」とあります。
おや、一休さん(違)。
最上三十三観音の第二十五番札所でもあるので、壁にはお札がいっぱい……。
「まゆはきを 俤にして 紅粉の花」 ~芭蕉~
「這出よ かひやが下の ひきの声」 ~芭蕉~
「蚕飼する 人は古代の すがた哉」 ~曽良~
お土産も売っていました。この「しおり」、道の駅で買ったのと同じ。
「芭蕉連句碑」
「十泊のまち 尾花沢 芭蕉翁」
門前に見える「古道(ふるみち)」は、旧・羽州街道。
左に曲がった先に、湧き水がありました。養泉寺の名前もそこから来ているのでしょうか。
芭蕉が来る前の年までは、寺もこの坂下のいづれかの田んぼの中にあったようです。
う~ん……やっぱり花笠ってUFOに見える……。
あの山々のどこからか現れそうな雰囲気。
芭蕉も見ていた……かもしれない。
沢山の人たちが、今も昔も見ていた……かもしれない。
どこまで続いているのかな……って、いきなり行き止まりかーい。
戻ります。
この後、芭蕉は鈴木清風の強い勧めで、予定にはなかった南へ約30㌔ほどの山寺(立石寺)を目指し(7月13日)、あの有名なセミの句――「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」を詠み上げるわけですね。
次は、花笠音頭の発祥となった湖へ(芭蕉と関係はないですが)――。