宝徳大社を出発し、次は同市内北側に位置する馬高縄文館(火焔土器ミュージアム)へ。
本来の予定としては、大社の麓にある「もみじ園(明治時代の神谷地区の大地主、高橋家の別荘の庭園)」で、縄文館が開くまでの時間つぶしも兼ねて紅葉を満喫しようとしていましたが、雨と風が強いためそちらは残念ながら断念。
ああ、ここに来たかったのよ~。火炎(火焔)土器にドッキドキ
炎を表しているといわれていますが、動物もいるような気が……もしかして土器自体が火の鳥? トップの突起は「鶏頭冠」と呼ぶようです(やっぱり鳥……)。一見、炎に見えるこの模様も、実は煙を表しているものだったりして(湯気ではないかという人もいましたが)。宝徳大社の火の鳥も煙に突っ込んでいっていましたが、そういえばUFOも煙が出ている火山に突っ込んでいったりしている映像をよく見かけますね。どうでもいいことですが、「煙」という字が「火星」に見えました。
マンホールにも火焔土器。ちなみに、一番最初に発見された火炎土器を「火焔土器」、それ以外は「火焔型土器」と区別して呼ばれています。こうした火炎様式の土器は、新潟県内の約150ヶ所から出土しており、交流していたとされる隣県近県からもわずかに出土されています。
岡本太郎も初めて火焔土器を見て、「なんだ、コレは!」と魂をわしづかみにされたようです。
「火焔土器の 激しさ 優美さ」 By,岡本太郎
開館までにまだ時間がありましたが、「中へどうぞ」と館長さんが快く入れてくださいました。
~ 山形新聞 2016-01-29付 ~
この火焔型土器(5体の国宝の土偶付き)をオリン&パラリンピックの聖火台にという要望には、山形県と長野県も参加。世界が縄文時代のような平和な世の中になるようにとの祈りも込めて……。
こうした小さい施設はアットホーム感がたまりません。人もいない分、落ち着いてじっくり見られる上に、館長さんらとも話し込めるというのも美点。
但し、当館のミュージアム↑の中は撮影してもいいのですが、ネットに載せるのはNGだそうです。かなり見ごたえありましたよ~。重要文化財だらけで圧巻! 中でも火焔型の「浅鉢」は、珍しさもあり衝撃的でした(あのモジャ感が好き )。ここには2014年に、天皇皇后両陛下も訪れています。
フェニックス! 不死鳥! 火の鳥!
それでは外に出て、復元された遺跡の見学へ。
実は雨で地面はグチャグチャ。気にしません。
背景の山々もいい感じ。
あれ、中に入れない……なんてこと。
一方、こちらは――
やはり入れず……シクシク。
そ・し・て、ここが「火焔土器の出土地点」!!
1936年(昭和11年)に火焔土器を発見した近藤篤三郎。近藤家は、この遺跡一帯の大地主だったそうで、3代に渡る発掘調査が行われた中での発見。後にこの土地は長岡市に寄付。
パンフレットやグッズを購入。火焔土器発見80周年を記念しての缶バッジもいただきました。
あ、この無限大∞の渦巻き↑、いつか見た縄文クッキーの形と同じ!
お、いいのやってるね!
フェニックス大橋!
中越地震の震災復興モニュメント「大地の女神」。現代アート風な火焔土器と土偶のコラボでしょうか。
さすがは大きい施設とあって広さといい展示数といい人の数といい、やはり違いますね。更にこの日はちょうど文化の日だったので、「文化するぞー!」と意気込みながら入りました。縄文時代の模型で「縄文最高!」とタイムスリップした気分に浸り(自然との共存共生はいつ見ても素晴らしい)、オリエントの貴重な展示物には刺激され、中でも「ウトナピシュテムの金の船」は、どう見てもUFO……。説明は書いてありませんでしたが、つまりこれ、ノアの箱舟なんですよね。「ウトナピシュテム=ノア」ですから。ちなみにこの日は、古代オリエント史に情熱を注がれた三笠宮様が亡くなられてちょうど一週間。
この後、帰りの途に就きましたが(←眠らない運転手)、運転中、大きな虹を2度見ました。
いえ、目の前を走る自衛隊車の水しぶきによるプチ・レインボーも含めたら3回ですかね。
どうでもいいことですが、「虹」という字が「蛇」に見えました。古代、「虹」は「ヌジ(沼の主が由来)」と呼んでいたようですし、やはり蛇とか竜になぞらえていたのでしょうね……ティアマトしかり。