――間があきましたが、まだ続いております(笑)。
“月の沢龍神街道”を『月の沢温泉 北月山荘』に向かってひた走ります。
雲がなければ月山が正面にすっきりと見えてくるポイント。
その途中にある、新田地区の新田広場のなんとも可愛らしい看板。
この辺りにも龍神碑があるはずなのですが発見できず……。
直進すると間もなく、大中島地区の古峯神社が左手に見えてきます。様々な石碑がズラリ。
龍神プレートもちゃんとありました。
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瀬場地区。
畑の中に巨石が点在。
巨石好きとして、テンションが一気に上がった場所(笑)。
山伏が修行した場所でもあるようです。
ここ庄内地方は古くから皇室との関係が深く、
大泉庄(今の庄内)が貢進したもののなかに国絹、砂金、馬などがあったようですが、
砂金を上納したのは大泉庄だけだったようです。
では、その砂金がどこから採られたかといえば――、
この流域の上流、瀬場が主な採掘場だったようです。
管理していた羽黒もまた、莫大な富や権利を得ていたようです。
瀬場はまた、羽黒修験の秋の峰入りで行う羽黒修験最大の秘所・三鈷沢回峰の基地でもあり、村人が道案内をする慣わしもあったとか。
修験者・山伏であるとともに、砂金採りの鉱山師の集団だったんですね。
後年、庄内を領有した上杉景勝が羽黒山の持つ勢力と砂金に注目し、越後の瀬場より金掘り五戸をここに移住させ、厚く保護して金の採取に従事させたとあります。
瀬場という地名はそこからのようですね。「瀬場衆」と呼ばれていたそうです。
庄内藩主・酒井忠勝が信州(松代藩)から移封した際にも、
大勢の金堀りの技術者を連れてきて、この瀬場に住まわせ採掘をさせたともあります。
その先の道沿いに見えた鳥居と石碑。
大泉坊塚とあります。
道路を挟んで向かいには、水神社と刻まれた石碑。
「せば」というと、庄内弁で「それじゃあ・それでは」という意味でもあるのですが、
集落の入り口にも上の看板が建ってあるので、
入っていきなり「それじゃあ」と言われている気がする、忙しい地区でもあります(違)。
南部山村広場。江戸時代に庄内藩直轄の砂金堀り場があった場所。
現在でも「流し掘り」という伝統的な方法で、
砂金掘り体験ができるみたいです(夏休み限定?)。
北月山ロッジも見えます。ロッジから見下ろした風景は<コチラ>。
龍神橋と躍動感のある2つの龍の絵(後ろはダム)は、昇り龍と降り龍でしょうか。
――ここまでが今回の立谷沢川流域めぐりの記事となりますが、記事はもう少し続きます。